びしゃり。湿った音を立てて、赤黒い飛沫が女の頬を打った。粘性のある液体が肌の上を流れていく。女は涙で潤んだ瞳を大きく開いて、眼前の化物に命乞いをした。
だが、化物に言葉など通じない。ソレはただ、目の前の肉を食らうことしか考えていないのだから。
化物は長い舌で己の唇を舐めた。そして、女に覆いかぶさるようにしてその体に食らいつく。血しぶきが飛び散り、辺り一面が真っ赤に染まった。
「……やべぇな」
やべぇ、などと言いつつも、その声は隠しきれない高揚感に満ちている。彼はこういった残酷な描写のある映画を好むのだ。怖ければ怖いほど良いらしい。ベッドボードにもたれかかって座る私に、背後からすっぽりと抱きかかえられた状態の彼。画面の中で繰り広げられる惨劇を見つめ、興奮からか頬を紅潮させていた。
一方私はというと、フィクションとはいえ人が死ぬ場面を見てしまうと気分が滅入ってしまう質だ。彼のようにホラー映画を楽しむことはできないが、彼の喜ぶ顔は近くで見ていたい。
今日から配信が始まるというこの作品を一緒に観ようと言い出したのは彼だった。
彼――薛洋は夜間も営業する飲食店で働いている為、学生である私とは生活リズムが異なる。残り僅かな冬休みが終わり大学の講義が始まれば、同棲しているとはいえ再びすれ違う生活になるだろう。それは仕方ないことだと分かっているのだが、やはり淋しいと思う気持ちも否定できない。だからこそ店の定休日である今日は、二人にとって貴重な日なのだ。
久しぶりに彼とゆっくりと過ごせる今日、この休日を少しでも楽しんでもらいたい。そう思って、私は彼の要望を受け入れた。
『ギャアァァ!』
ノートPCのスピーカーから耳をつんざく悲鳴が響いた。画面には、今まさに命を刈り取られようとしている男の哀れな姿が映し出されている。私は思わず息を呑み、体を強張らせてしまった。
「星塵、手が止まってる」
「わっ、ごめん」
彼は“あ”の形で口を開いたまま後ろを振り返り、こちらをじろりと睨んだ。慌てて謝罪の言葉を口にしながら、ポップコーンバケットから新しいものをひとつ摘まみ上げる。このポップコーンは今日のために私が用意したものだった。スタンダードな塩味ではなく、甘いものが大好きな彼のために選んだいちごミルクのフレーバーだ。
彼は気ままな性格をしているくせに、妙なところで甘えたがりだったりする。今日もこうして私の腕の中で、当然のようにポップコーンを食べさせてもらっているのだ。自分のタイミングで手に取って食べれば良いと思うのだが、そうするよりも、私に食べさせてもらう方がずっと美味いのだという。そんな子供っぽいところも可愛らしいと思ってしまうので、つい甘やかしてしまう私も私なのだが……。
彼の口の中にポップコーンを放り込んでやると、すぐに次のものが欲しくなったらしく、また口を開いて催促してきた。その様子はまるで親鳥の口移しを待っている小鳥のようだ。彼が望むままに、次々とポップコーンを口に運んでやる。
画面の中のグロテスクなシーンの前ではどうも食欲が湧かない。だが彼はまったく平気なようで、ポップコーンはどんどん減っていった。映画はまだ中盤に差し掛かった頃だというのに、とうとう最後の一粒を食べ終え、あっという間にバケットは空になってしまった。
「これで終わりだよ。手を拭くから、ちょっとだけいいかな」
サイドテーブルに置いたウェットティッシュを取ろうと、身体を横にずらした時だった。突然腕を掴まれ、ぐいっと引き寄せられた。
「バカ! 待て!! 一番美味いのはそこだぞ」
彼はいちごミルクのパウダーがたっぷりとついた私の指先をぱくりと咥えると、ちゅうちゅうと吸い始めたのだ。
指の腹に舌が絡みつき、敏感な皮膚の上を滑っていく。自然と肩が跳ねた。指先を舐められる感覚にぞわぞわとした快感が走る。
まずい、これは非常にまずい。このままでは変な気分になってしまう……。
顔に熱が集まり始めた頃、彼はひとしきり舐めて満足したのか、ようやくちゅぽんと音を立てて指が解放された。
「あーっ、最高~~。たまらん」
「行儀がわるいよ阿洋」
「これだから育ちの良いお坊ちゃんは。ベッドの上でだらしなく飲み食いしてるってのに、今さらだろ?」
彼はくるりと体勢を変えて私と正面から向き合うと、膝の上に乗り上げて抱きついてきた。
「なぁ、星塵……」
甘える仕草で首に腕を回してくる。艶っぽく細められた瞳がじっとこちらを見つめていた。
何かを訴えかけるような視線と甘ったるい声は、彼がいつも私をベッドに誘う時のそれと同じものだ。条件反射的に下半身が反応しそうになる。先程の舌の感触が蘇り、ごくりと喉が鳴った。
いけない。まだ映画は中途半端だし、シャワーも浴びていないというのに。
私はぐっと奥歯を噛みしめて堪えた。
そんなこちらの葛藤などお構いなしといった様子で、彼はぺろりと舌なめずりをした。濡れた唇が情欲をかき立て、一気に理性をぐらつかせる。もうそこから目が離せない。
吸い寄せられるように顔を近づけたその時、頬に鋭い痛みが走った。彼の手が私の頬をぎゅうっとつねったのだ。
「ポップコーン」
「いたた……な、なに」
「もっと食べたい♡ まだあるんだろ?」
「……」
いたずらっ子の笑みを浮かべる彼を見て、私はがくりとうなだれた。まったく、思わせぶりな事を……本当に困った子だ。
「なんだよ、変な顔して。さてはまたすけべなことでも考えてたな」
図星をつかれ、ふたたび顔が熱くなった。薛洋は私の様子を見てケラケラと笑う。先ほどまでの色気はどこへやら、すっかりいつもの調子に戻っている。
「年上をからかわないでよ。取ってきてあげるから、ちょっと待ってて」
「やった!」
私の膝から下りた彼は、いそいそとクッションを抱え込んで座り直した。
わざとなのか無意識なのか。煽るようなことをしておきながら、何事もなかったかのように振る舞う彼を見て溜息をつく。
けれども私はそんな彼を憎めないどころか、むしろ可愛らしいとすら思う。
不思議と彼にはうんと甘くなってしまって、何でも許してしまいそうになるのだ。それが彼の計算によるものなのか、はたまた天性のものなのかは分からない。どちらにせよ、抗うことなどできないのは惚れた弱みと言わざるを得ないだろう。
「次はチョコレート味のやつな!」
「はいはい」
「あっ、コーラもなくなりそう」
「わかったよ」
彼のリクエストは背後から次々と飛んでくる。
かわいい人のわがままに応えるべく、私は早足でキッチンへ向かった。