すでに午の刻に近い時刻となっていた。暖かな陽光が降り注ぎ、ぽかぽかと暖かくなる時間帯だ。しかしそんな陽気とは裏腹に、阿箐は頬杖をついて、むすりとした表情を見せていた。いらいらした様子で、貧乏ゆすりを繰り返している。
(いつまで寝てるのよあの怠け者)
暁星塵はとっくに炊事洗濯を済ませたというのに、薛洋は依然として寝床から起きてくる気配すらない。
「ねえ道長。そろそろ叩き起こしてやらないと、日が暮れてしまうかもよ」
苛立つあまり、つい声が大きくなってしまう。
だが暁星塵はまあまあ、と困ったように笑うばかりで少しも取り合わない。その態度がますます腹立たしくて、阿箐は地団駄を踏みたくなった。
「だってまただよ! あいつったら、いっつも道長に家事をやらせてるくせに、自分はぐうたら寝てばっかりなんだもの。あたし、もう我慢できない」
「……疲れているのです。もう少しだけ寝かせてあげましょう」
そう言われてしまうと、それ以上強く言うことはできない。
(道長はあいつに甘すぎるんだよ。それに疲れてるったって、昨夜は夜狩には行ってないはずだけど。確かまた二人で星を見に行くって……)
阿箐はしぶしぶ引き下がるより他なかったが、それでもやはり納得はいかなかった。
少し前のある夜のこと。
火鉢のそばで、阿箐は狸寝入りをしながら二人の話に耳を傾けていた。時折パチリと爆ぜる火の粉の音、夜風に揺れる木々の葉擦れの音、そしてひそひそと話す二人の男の声だけが聞こえる。
「柄杓の形をした七つの星は見えますか。柄杓の口が開いた方向の少し先に輝いているのが北辰です」
「ああ、あれか。道長が物知りなのは知ってたが、星にまで詳しいとはな」
暁星塵は仙術や漢方医薬だけでなく、陰陽五行思想や天文学などにも通じているらしい。今夜は隣の男になにか話してと強請られて、仕方なく星座についてぽつぽつと語り始めたようだ。
「夜空の星官は北辰を天帝に見立て、そこから皇族、官僚、軍隊、庶民といったふうに……社会制度になぞらえてあらゆるものが配列されています。北辰から遠ざかるほど庶民的な星官になっているというわけです」
「あらゆるもの?」
「そう。魚、亀、老人、塀、柱……厠や屎尿もあります」
「星にまで尊卑があるなんて、先人の中にはおかしな事を考える奴がいたんだな。天帝の星に糞の星だって? ハハッ……くだらねぇ」
薛洋が可笑しそうに笑うと、暁星塵もつられてくすくすと笑った。
星の物語に思いを馳せながら暁星塵の話を聞いていた阿箐も、薛洋の下品な物言いにうっかり吹き出しそうになってしまう。狸寝入りがバレないよう、すんでのところで唇を噛んでそれをこらえた。
「それにしても、星の並びを知ったところで一体何に役立つんだ。掴み取って食えるわけじゃねぇし」
心底不思議そうに薛洋が尋ねる。
「星を知れば方角がわかる。方角がわかれば、道に迷っても目的地へ辿り着くことができるのです」
――北辰は常に同じ場所にある。だから北辰にへそを向ければ、正面が北、右が東、左が西、後ろが南。
――他に目印がなくとも、北辰を頼りに道を見つけられる。
暁星塵はまるで星が見えているかのように、頭上を見上げてそう語った。
「もしもこの先あなたが進むべき方向を見失っても、星が正しい道へ導いてくれます」
薛洋はふうん、とわかったようなわからないような曖昧な声を出す。やがて暁星塵の耳に唇を寄せると、内緒話をするようになにやら囁いた。
一瞬のことだったため、阿箐には聞き取ることができなかったが、暁星塵はくすぐったそうに首をすくめて小さく笑っている。
(……何の話をしてるんだろう)
二人は顔を寄せ合い囁き合った。互いにしか聞こえない、小さな声で。
気になって耳をそばだてるものの、彼らの会話の内容はさっぱりわからない。
そうしているうちに、暁星塵は阿箐の薄い布団をそっとかけ直してから立ち上がった。どうやら二人は、足音を忍ばせながら義荘を出て行ったようだ。
完全に人の気配がなくなったことを確認すると、阿箐はむくりと起き上がった。暁星塵と薛洋の姿はなく、しんと静まり帰った義荘にひとりきりだった。
窓の木枠の向こうに、無数の星が瞬いているのが見える。
「もしかして、星を見に行ったの?」
きっとあの男にせがまれて、暁星塵は眠っている阿箐を起こさないよう気を遣い、こっそりとでかけたのだろう。
(いいなぁ。あたしも一緒に行きたかったな)
阿箐はひとりため息をつき、しょんぼりと肩を落とした。仕方なく再び火鉢のそばで丸まると、ふてくされたように目を閉じたのだった。
「いてて……。あーあ、もう昼かよ」
翌日、日が高く昇った頃になってようやく起き出してきた薛洋は、ひどく眠そうな様子だった。頭をばりばり掻きむしり、何度も大あくびをしては目をこすっている。寝違えたのか怪我でもしたのか、肩や腰のあたりをしきりにさすっていた。
「こんなに遅く起きてきたって、もう朝餉はとっくに片付けちゃったからね!」
嫌味たっぷりにそう言ってやると、薛洋はチッと舌打ちをして睨みつけてくる。だが暁星塵は彼の寝坊を咎めるでもなく、穏やかに微笑みながら一人分の食事の用意をし始めた。
「今度星を見に行く時は、もう少し早く帰って来られるように気をつけましょう」
「まぁ俺も道長も、昨日はつい時間を忘れてしまったからな」
薛洋は何かを思い出したのか、急に機嫌が良くなりニヤニヤと笑い出した。
(なによ、気持ちの悪い笑い方しちゃって)
なんだか仲間外れにされているようで面白くない。阿箐はむすっとした顔でそっぽを向き、爪を噛んだ。
薛洋はよほど暁星塵の星の話が気に入ったのだろう。同じような事が何度か続いた。
『義荘よりも開けた場所で星が見たい』
『星を見ながら道長の話が聞きたい』
薛洋がそう言えば、暁星塵は彼を連れて出掛けて行く。
阿箐が一緒に行きたいとせがんでも、薛洋は「生まれつきの盲人のくせに星の話なんか聞いてどうする」と言って相手にしてくれない。暁星塵も「まだ子供なのですから、夜はきちんと眠って体を休めなくてはいけませんよ」と言い聞かせるばかりだ。
結局、何かと理由をつけて断られてしまうのだ。まるで二人だけの秘密の場所でもあるみたいに、いそいそと出かけて行くのだから面白くない。
(あたしに知られたらまずい事でもあるっていうの?)
そうして二人が出かけた翌朝は、決まって薛洋が寝坊して遅い時間に起き出してくる。阿箐はそのたびに腹を立てた。
今夜も薛洋は星を見に行こうと暁星塵の袖を引き、暁星塵は嬉しいような困ったような不思議な顔をしながらも、それに応じる。
またも置き去りにされることに、阿箐は苛立ちを隠しきれない。ぷうっと頬を膨らませ、唇を尖らせた。
「先に寝ていてくださいね。火には気をつけて」
暁星塵と薛洋は肩を寄せあい踵を返す。二人はぴったり寄り添いながら、人気のない暗い夜道を歩いて義荘を出て行った。
阿箐の中に芽生えていたひとつの憶測が、確信へと変わろうとしていた。
――星を見るなんて道長を連れ出す為の口実だ。あいつは道長を独り占めしたいだけなんだ。
二人の背中が見えなくなるまで見送った阿箐は、その場に立ち尽くしぎりぎりと歯噛みした。
視線の先にあるのは壊れかけた義荘の門戸、薄く霧のかかった小路、そして頭上に広がる夜空。
だがその空は、一面ぶ厚く重たい雲に覆われている。
あたりは星の光はおろか、月の光すら到底届かないほどんど真っ暗闇なのだ。
「どこに星なんか出てるのよ。あの嘘つき」
怒りに任せて竹杖を振り回すと、地面を殴りつける鈍い音が響き渡る。
暗闇の中で、周囲の木々が一斉にざわめいた。