夜が明けたばかりの澄んだ大気の中に、まだ冷たい冬の名残りを残した朝の冷気が漂っていた。起きる時刻だと告げるように鳴き交わす鳥の声は聞こえるものの、ここは寝床から出る気にならないほど心地よい温もりに満たされている。
すぐそばにある体温に触れようとそっと手を伸ばせば、彼はこちらの手を取り、赤子がするように指を口に含んだ。
「もう起きていたのですか」
「まぁな。変な夢を見て目が覚めちゃってさ」
夢で良かった。そうつぶやきながら私の胸に顔を埋めてきた彼は、甘えるように額を押しつけてくる。
「どんな夢?」
何とはなしに尋ねてみると、彼はしばらく黙ったまま考え込んでいたが、やがてぽつりと答えた。
「あんたとチビを……いや、やっぱり秘密」
「また秘密ですか。君は秘密だらけですね」
苦笑すると、彼も腕の中でくつくつと笑う。
――日ごろから彼にはとかく秘密が多い。
林檎をウサギの形に切るのは誰から教わったのか尋ねたら「秘密」。
このあたりではなかなか手に入らないような高価な蟠桃を持ち帰り、金はどうしたのかを尋ねても「秘密」。
またある時は、彼のお手製だという不思議な味の茶を飲ませてくれて、どんな茶葉を使ったのかを尋ねたらやはりこれも「秘密」だと言って答えてもらえなかった。
それを秘密にしていったい彼にどんな得があるのだろうか?
私にとっては隠す意味などないように思えることでも、彼にとってはなにか重要な意味を持つのかもしれないし、実はたいした意味などない彼の遊び心にすぎないのかもしれない。
ここで共に暮らすようになって一年以上が経った今でも、彼の素性どころか、彼がなぜあの場所で倒れていたのかすらも私は知らない。彼は最初から謎めいた存在だったのだ。
初めは気にならないわけではなかった。
だが、今となってはそれはほんの些細なこと。あることないことでたらめを並べ立てて人を陥れるような真似をするわけでもなく、ただ彼が語りたくないと思っていることに関して口を噤むだけなのだから、無理に聞き出す必要もないだろう。
彼と阿箐と私、三人で過ごす日々はとても穏やかで満ち足りたものだと感じているし、この生活がいつまでも続けばいいと願ってもいた。だからあえて波風を立ててまで詮索するようなことはしなかった。
「ちょっとくらい謎や秘密があった方が、逆に興味が湧くってこともあるだろう」
「うん、たしかに。でもそれはつまり……」
「なんだ」
「君に秘密が多いのは、私の気を惹きたいからなのですか?」
揶揄うように尋ねると、彼は腕の中で居心地悪そうに身じろぐ。
「……さあね」
「はぐらかさないで、教えて」
「やだよ」
「また秘密? おや本当だ、逆に興味が湧いてきますね。ふふふ」
「うるさいやつだなぁ。自惚れやがって」
つれなくそっぽを向いた彼の首元に唇を這わせる。昨夜の情事の名残りがまだ生々しく残る肌は少し汗ばんでいて、しっとりと吸いつくようだ。軽く歯を立てればぴくりと肩先が震えて、清浄な朝の空気にはどこか場違いな、淫らな熱を含んだ吐息がこぼれた。
「っ……ぁ……」
彼の秘密にひとつ問題があるとすれば。
閨で睦み合う時、愛しい人の名を呼べないことくらいではないだろうか。
だが、私にとってはそれすらも些末なことに過ぎないと思えた。
彼の顎を掴んでこちらを向かせ、唇を重ねればすぐに熱い舌が応えてくれる。あっという間に口づけは深くなり、まるで渇ききった喉が水を欲するように、夢中で互いの舌を貪った。息を継ぐために唇が離れるわずかな合間すらも惜しい。
くらくらするほどの甘い陶酔感の中、頭の片隅でぼんやりと考える。
(もし彼の名を知ったとしても……こんなふうに舌が絡みあっていれば、どのみち名を呼ぶ暇はほとんどないに違いない)
もっと深く繋がりたくて、私は口づけを解かぬまま、その体を強くかき抱いた。