黒猫の手懐け方

「いつもありがとうございます! フードデリバリー馋猫チャンマオです」  エントランスの片隅にあるインターホンの前でそう告げる。しばらくしてから、いつもと同じ軽やかな男の声が返ってきた。 「ありがとう、今開けますね」  オートロックが解除される音が響く。俺は注文された料理を手に、急いでエレベーターホールへ向かった。  エレベーターを5階で降りて、530号室の部屋の前で呼び出しボタンを押す。扉の向こう側でパタパタという足音の後、すぐにガチャリと鍵を開ける音が聞こえてくる。  開いたドアから顔をのぞかせたのは、見目麗しい青年だった。瞳はまるで宝石のようにキラキラしていて、見つめられると吸い込まれてしまいそうになる。初めて会った時も、こんなふうにじっと見つめられて、それで……。 「こんにちは、今日も暑いね」  彼はそう言って、にっこりと笑う。  俺より少し背が高いけど柔和な顔つきをした彼からは、いつもふんわりといい香りが漂ってくる。シャンプーの匂いだろうか。  彼の部屋を訪れるようになって何週間か経つが、まだ名前しか知らない。彼──注文者の名前は暁星塵。どんな仕事をしているのか、どうしてこんなに頻繁に注文をくれるのか、俺には何も分からない。  ただ分かることは、彼がとても優しい人だということ。ただの配達員の俺のことを邪険に扱うこともなく、いつでも穏やかに接してくれるということ。  いつの頃からだろう。俺はこの部屋からの注文を受ける度に、心が浮き立つようになっていた。 「お待たせしました。こちらがご注文のランチセット二人前になります」 「はい、確かに受け取りました。いつも本当にありがとう」  暁星塵は俺の手から料理を受け取った。そしていつものように、チップと一緒に棒つきのキャンディをひとつ渡してくる。 「こちらこそいつもありがとうございます。それじゃ失礼します」 「あっ、待って!」  踵を返しかけた時、不意に呼び止められた。振り返ると、彼はなぜか照れ臭そうな表情を浮かべながら言った。 「あの……良かったら、これから一緒にランチを食べない?」 「えっ!?」  思わず大きな声が出てしまった。だって、まさかこんな展開になるとは思わなかった。だが今は仕事中。客の家に上がり込んで食事を取るわけにはいかない。そんなことをしたら契約違反になってしまうし、せっかく見つかったアルバイトがクビにもなりかねない。  それに、彼と二人でご飯を食べるなんて想像しただけで緊張してしまう。 「あー、いや、でも……」  断ろうとしたその時、俺の言葉を遮るように腹が鳴った。タイミングが良いのか悪いのか、俺のお腹が空っぽであることをアピールするかのように、ぐうううっと音をたてたのだ。  顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしくて、いたたまれない気持ちになる。 「……」 「あはは! お腹がすいてるなら、一緒に食べようよ」 「でも、そういう訳にもいかないんで……」  俺は言葉を濁す。しかし暁星塵は引き下がらない。 「実は一緒に食べる予定だった人が急に出かけることになってしまって。だから一人で食べるには量が多すぎるし、もし時間があれば食べて行ってくれないかな。ね? お願いします」  そう言って頭を下げられてしまえば、俺に断る理由などなくなってしまう。スマートフォンを確認すると間もなく14時になろうとしている。俺は専用のアプリを操作して、「オンライン」の文字を「オフライン」に切り替えた。 「どうぞ上がって」  促されるまま室内に足を踏み入れる。初めて入る彼のプライベート空間に少しだけ胸が高なった。だがその時、玄関まわりに女性の趣味を感じさせるぬいぐるみ、動物の置物、小さな多肉植物などが飾られているのが目に入る。奥さんか、彼女だろうか……。このランチも彼女と一緒に食べる予定だったのかもしれない。そう思うとなんだか複雑な気持ちになった。  もやもやとしたものを抱えながらも、奥へと案内された。  すると、そこにあったのは普通のリビングルームではなかった。広々としたデスクの上にはPCが二台並んでいる。床にはOA機器の配線が這い回り、壁際の本棚にはびっしりと本が並べられている。どれもこれも俺には馴染みのないタイトルばかりだ。 『子ども健康と社会』『子どもの権利 』『児童労働の今』『児童虐待を考える』……子どもに関する書籍が大半を占めている。 「ここは会社? 入り口のは奥さんの趣味じゃないのか?」  俺が尋ねると、暁星塵は微笑みながら答えた。 「いや、ここはNGO団体の事務所だよ。本当に小さな組織だけどね。友人と二人で運営しているんだ。玄関にごちゃごちゃあるのは、妹が時々遊びに来て置いていくものだよ」  なるほど、そういうことだったのか。俺は少しだけホッとした。  それにしても、この人はそんな立派な仕事をしている人だったのか。俺が驚いていると、彼はさらに言葉を続けた。 「友人が急に出張になってさっき出かけてしまって。食べ物が無駄にならなくて助かったよ。さあそこに座っていて。すぐに用意するから」  暁星塵が指差したのは応接用のソファだった。どうしようか迷っていると、早くおいでと手招きされてしまい、仕方なく腰掛けた。  しばらく待っていると、氷の入ったアイスコーヒーと共に、さっき俺が配達したランチセットが運ばれてきた。サラダとスープ、そしてハンバーグにライスがワンプレートに盛り付けられている。 「はい、どうぞ」 「ありがとうございます」 「ふふ、こちらこそいつもご苦労様です」  彼はそう言うと、向かい側の一人掛けの椅子に座り、ランチを食べ始めた。 「いただきます」  俺は口元を覆っていた黒いマスクを取り、両手を合わせて、小さく呟く。彼はこちらを見て優しく目を細めた。 「君の顔をちゃんと見るのは初めてだけど、とてもハンサムな顔立ちをしているんだね」  そう言われた瞬間、俺の顔は真っ赤に染まった。  彼に褒められたことが嬉しくて、でもそれを悟られるのが恥ずかしくて、照れ隠しに慌てて話題を変える。 「冷めちゃうから、あんたも早く食べてくれよ」  俺がそういうと、暁星塵はまた柔らかく笑った。  彼はフォークを手に取り、上品に切り分けていく。一口サイズに切ったハンバーグを口に運ぶと、ゆっくりと咀しゃくした。嚥下した後、グラスに注がれていたアイスコーヒーを飲む。喉仏が大きく上下する。そんな何気ない仕草にさえ色気を感じてしまう。  ああ、やっぱりこの人綺麗だな。  見惚れてぼーっとしていたら、突然目が合ってしまった。慌てて目を逸らす。 「黒猫君、どうかした? お口に合わなかったかな」 「いや、全然! 美味いです。でも“黒猫君”っていうのは……?」  俺がそう尋ねると、彼はハッとしたような顔をした。 「ごめんつい癖で。君のその黒いユニフォーム、フードのところに耳がついているでしょう。だから勝手に名前をつけて呼んでいたんだよ。不快だったら謝ります」  しゅんとする彼に、俺は首を横に振った。嫌じゃない。むしろ嬉しかった。俺のことをちゃんと見てくれてる人がいて、しかもそれがこんなに素敵な人で。 「別に構わない。好きなように呼んでくれていいよ」  俺が答えると、彼は安心した様子で笑みを浮かべた。 「よかった。あ、コーヒーは砂糖多めが好みかな」  そう言って、俺の前にガムシロップをどっさり差し出した。どうして俺がブラックが苦手なこと知ってるんだろう。 「ふふ、なんで分かったんだって顔してる。実を言うと、君のことをすぐ近くのコンビニで見かけたことがあってね」 「えっ!?」  俺が驚いていると、彼はクスッと笑って話し始めた。ある日の夜、俺が仕事帰りに立ち寄ったコンビニで、俺がレジに並んでいた時。たまたま隣の列に彼も並んでいたのだという。 「その時に、君はレジのところに置かれていたあのキャンディを、ディスプレイごとまるごと買っていったんだよ。店員さんもすごくびっくりしてて、思わず笑いそうになった」  彼はその時の光景を思い出したのか、楽しそうに笑う。見られていたことが恥ずかしくて、穴があったら入りたかった。 「君はよほど飴が好きなんだなぁって。だからきっと甘いものや、甘いコーヒーも好きなんだろうなと思っただけだよ」  なるほど、だからいつもチップと一緒にキャンディをくれるのか。俺はアイスコーヒーにたっぷりとガムシロップを入れてかき混ぜながら思った。 「余計なお世話かもしれないけど……配達員の待遇は良いとはいえないと聞いたことがある。なのにあんなに大量の飴をまとめて買うなんて、大丈夫だったの?」  心配そうな表情で尋ねてくる暁星塵に、俺は苦笑いしながら答えた。 「元々は友人の家がやってる会社で働いていたんだ。だけど色々あってクビになっちゃって。それで今は再就職までのつなぎにフードデリバリーの配達員をしてる。だからまぁ、少しは貯金もあるんだ」 「なるほど。それを聞いて安心した」 「でも、見られてたと思うとなんか恥ずかしいな」  俺が頭を掻くと、暁星塵は微笑む。 「ふふ、見た目とすごくギャップがあって……なんだか可愛いなって思ったよ」  可愛いって、俺が? こんな、所謂ヤンキーみたいなナリをしている俺に、そんなことを言ったやつはこの人が初めてだ。  俺が驚いて固まっていると、暁星塵はハッとして顔を赤らめた。  俺の頬にも熱が集まっていくのを感じる。 「ごめん、つい本音が漏れてしまった。忘れてほしい」 「……」 (本音……)  暁星塵が俺に言った言葉がぐるぐると頭の中を巡っている。可愛いなんて言われたのは初めてで、どう反応すればいいのか分からない。 「えっと、その……」  俺が口籠っていると、暁星塵が話題を変えてきた。 「そうだ、デザートもあるんだ。プリンは好き?」  テーブルの上には、二つのカップが並べられた。一つには、バニラビーンズがたくさん入った濃厚な香りのするカスタードソースが入ってて、もう一つはカラメルが焦げ茶色に輝いている。どちらも美味しそうで、どっちにしようか迷ってしまう。  どちらかというと、思いっきり甘くて濃い方が好みだけど、ほろ苦い大人の味もいい。  しばらく悩んでから、俺はカスタードの方を選んだ。暁星塵は、カラメルソースがかかってる方を手に取る。  スプーンで掬ってひとくち食べてみると、卵の風味がしっかりと感じられる、なめらかな舌触りのクリームが口いっぱいに広がって幸せな気分になる。夢中で食べる俺を見て、暁星塵は嬉しそうな笑顔を浮かべていた。 「こっちもひとくち食べるかい?」  差し出されたスプーンをじっと見つめて、それから暁星塵の顔を見上げる。これはいわゆる、あーん、っていうやつなんじゃないか。 「ほら、遠慮しないで」  戸惑う俺に構わず、暁星塵が促してくる。恥ずかしさで躊躇していたけど、意を決して、おずおずと口を開けた。すると、暁星塵が俺の口にそっとスプーンを差し入れてくる。口の中で広がるほろ苦さと甘さに思わず顔が綻ぶ。 (──あ、間接キス)  今更気づいた事実に、胸がドキドキと高鳴る。暁星塵は気にしていないようで、ニコニコしながら俺のことを見ている。 「なんか俺、あんたに餌付けされてるみたいだな……これといい、飴といい」 「あはは! でもその成果で、ようやくこうやって黒猫君とお近づきになれた」  そんな風に言われて、悪い気はしなかったけど、なんだか少しむず痒くて落ち着かない。 「でも、野良猫に餌付けをして懐かれたら、また餌をもらいに来ちゃうかもしれないよ」 「ふふ、それは嬉しいな」  冗談めかして言っだけなのに、暁星塵は屈託のない笑みを見せる。その表情に、俺の心がじんわり温まっていくような気がした。 「ねぇ。もしよかったら、君と仲良くなりたいんだけどどうかな。まずは、友達から」  暁星塵はそう言って、右手を差し出す。  俺は少し迷ってから、おずおずとその手を握った。 「……俺の名前は薛洋。よろしく」  俺が名乗ると、俺の名前を嬉しそうに復唱する。 (友達から、って)  ──まるでその先があるみたいじゃないか。  暁星塵の澄んだ瞳に見つめられ、心臓がどきりと跳ね上がる。その視線がくすぐったくて、俺は思わず目を逸らして俯いた。  暁星塵はそんな俺の様子を気に留めることなく、俺の手を握り返してくる。  その掌はひんやりとしていて心地よくて、俺の身体の熱が伝わってしまわないか気が気でなかった。

 

こちらのイラストから許可をいただいて、小説を書かせていただきました!ありがとうございます😍

↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑
LinoさんがTwitterのアカウントを削除してしまったので洋洋のイラストが見れなくなって咽び泣いていたのですが、先日開催したひとりぼっちの薛洋お誕生日会♥においでくださいまして、あの絵もう1回見゛だい゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ーーーと駄々をこねたら送ってくれました。嬉しい。ありがとうございます!(2023年7月27日追記)

↑の薛洋に私の妄想↓を付け加えさせてもらった形です……へへへ……

ちなみに「馋猫」は食いしん坊っていう意味だそうです。
魔道祖師 オンライン交流会6【DAY2-黒兎】で公開した作品です。2022年7月18日鍵を外しました。