飴と八重歯

 土曜日の最後の患者が診察室を出た後、暁星塵は自分以外のスタッフを帰宅させた。あとは簡単な事務仕事が残っているだけだ。今日の仕事は終わったも同然だった。 明日は休診だから、一人でゆっくり映画でも見ようか。それとも新しい本を買いに行こうか。 そんなことを考えながら椅子の上で背伸びすると、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。時計を見ると午後7時50分。診療時間も過ぎたこんな時間に一体誰が?  不思議に思いながらも扉を開けると、そこに立っていたのは一人の青年だった。 「もう終わり? 見てもらえないかな」  男は暁星塵の返事を待たずにズカズカと待合室に入っていった。暁星塵は慌てて彼を追いかけて待合室に入る。  年齢は二十代半ばといったところか。整った顔立ちをしているが、顔にはできたばかりと思われる傷や痣があり、うっすらと血まで滲んでいる。喧嘩でもしてきたのだろうか。  彼は黒いダウンジャケットを脱ぐと長椅子に放り投げるように置いた。 「申し訳ありませんが今日の診察はもう終わりました。予約を入れますから、後日またいらしてください」  そう伝えると、彼は暁星塵の顔をじっと見つめてきた。値踏みするような不躾な視線だ。彼の視線が暁星塵の頭から爪先までゆっくりと移動していく。まるで全身を舐められているかのような感覚に鳥肌が立った。 「今日なんとかしてほしい。今現金は持ってないけど、絶対に後で払う」  なんと彼は金がないどころか、身分を証明する物を持っていなかった。名前すらも明かそうとしない。  早く出ていってもらおう。そう思って口を開こうとした瞬間、彼が先に言葉を発した。 「頼むよ。見てよこれ」  彼は指で唇を持ち上げると、前歯を剥き出しにして見せた。右上1番が中途半端に欠けてなくなっている。確かにこれは目立つ。  そしてそれ以上に目を引いたのは、左右の大きな八重歯だった。乳白色のエナメル質が照明を受けて輝いている。虎の歯とも呼ばれる八重歯には良くない迷信があるため、一般的には嫌厭されるものだ。だが、彼の場合はその八重歯が不思議とチャーミングに見えた。  思わずじっと見つめてしまった暁星塵だったが、ハッと我に返る。咳払いをして眼鏡のブリッジを押し上げた。 「これじゃ明日、人前に出る時格好つかないからさ……ねえ先生、お願いだよ。他の病院はどこも閉まっちゃってるし」  青年は懇願するように頭を下げた。拍子に、首筋の派手なタトゥーがちらりと見えた。  なんだか断った方が面倒なことになってしまいそうな雰囲気だ。それに、この程度の欠けならすぐに修復できるだろう。  暁星塵は諦めて彼を受け入れることにした。 「わかりました。ではこちらへどうぞ」  青年は顔を輝かせた。笑うとますます八重歯が目立つ。最初の印象は良くはなかったものの、屈託のない笑顔を見ていると何故か憎めない気がした。  暁星塵は青年を治療室に案内すると、治療椅子ユニットに座るように促した。  まずは口腔内をチェックする。どうやら前歯以外に破損はないようだ。だが他の歯には多数の虫歯ができている。特に左下一番奥の親知らずは大きく穴があいていた。これでは食べ物を噛まずとも痛みがあったはずだ。 「前歯よりもこっちの虫歯の方が重症だよ。それに他にも小さな虫歯がたくさんある」  青年はバツの悪そうな顔をした。 「俺、四六時中甘いものとか飴を食べてるから……」 「いくら好きで食べているといっても限度があるでしょう? 虫歯の原因になるし、長い目で見ると糖尿病や心臓病を引き起こすこともあるんだ」  暁星塵は思わず強い口調になってしまったことを反省して、今度は優しく問いかける。 「どうしていつも甘いものを食べてるの?」 「……甘いもん食べると嫌なこと忘れられるし、なんか元気出る気がしない?」  青年が小さな声で答える。年の割に子供っぽい理由が可愛らしく思えた。と同時に、彼にそうさせる“嫌なこと”が気にかかった。だが今は治療が先だ。  前歯の欠けはコンポジットレジン修復ですぐに治る。だが奥歯は早急に抜歯エキストが必要とされる状態だった。 「この奥歯はすぐ抜いた方がいいね。麻酔をかけるけど、痛かったら左手を挙げてください」 「了解」  彼がひらひらとあげた左手に暁星塵は目を奪われる。左手の小指がないことに気づいたのだ。もしかすると複雑な事情を抱えているのかもしれない。しかしそれを聞くほど親しい仲ではないため、深く追求することはしなかった。  治療はスムーズに進んだ。青年はさして痛がるそぶりもなく、あっという間に処置が終わる。修復した前歯もまったく違和感がないくらいに自然だ。止血用のガーゼを噛ませた後、抗生物質と痛み止めの薬を渡した。  それともう一つ、彼の手の中に飴を握らせる。  普段は子供の患者にしか渡さない飴なのに、なぜか彼にはあげなければならないような、そんな気がした。 「その飴は、虫歯の原因になる甘味料や原料を一切使っていないから、食べても虫歯にならない。どうしても飴が食べたくなったら食べて。受付でも売ってるから気に入ったら買いに来るといい」 「へえ、そんな飴があるんだ」  彼はしげしげと飴を眺めると、大事そうにポケットにしまい込む。 「次の診察だけど、うーん……しばらく予約が詰まってるな。明後日また同じ時間になら来れる? 抜歯後の消毒をしないといけない。それに他の虫歯の治療も」 「わかった。次は絶対金を持ってくるよ」  にっこりと微笑む彼の表情は、まるで子供のように無邪気だった。  この手の患者は喉元過ぎれば熱さを忘れるもので、応急処置をした後は放置しておくことが多い。治療費も踏み倒されることもしばしばで、そのまま縁が切れてしまうこともあった。  きっと今回もそうなるのだろうと暁星塵は腹をくくっていたのだが、彼は律儀にも約束を守り、午後7時50分の診療時間に合わせてやってきた。  前回同様、すでに他のスタッフは帰宅させている。待合室の長椅子に腰掛けて彼を待っていると、コンコンと扉を叩く音がした。彼だった。 「あー疲れた。先生、ちょっとだけ休ませて……」  待合室に入るなり、彼はどかっと暁星塵の隣に腰を下ろして目を閉じた。もたれかかってくる彼の重みを肩に感じる。  彼の横顔をそっと盗み見ると、鼻筋が通り、彫りが深く美しい顔立ちをしている。睫毛が長く、目元に濃い影を落としている様子はどこか色香さえ感じさせた。  だがその顔には前回よりもさらにひどい内出血のあざが増えていて、絆創膏で覆われている箇所もあった。 「ん……」  体勢を保とうとしてか、彼が身じろぎをする。ふわりと漂うせっけんのような香りに、一瞬心臓が跳ね上がった。  チンピラ風の外見からは想像できない爽やかな香りが暁星塵の鼻腔をくすぐる。雨でもないのに髪が濡れているのは、シャワーでも浴びてきたからだろうか。歯医者の前にシャワーだなんて、いささか妙である。  ――もしかして、誰かと会っていたとか。  白昼夢のように、彼と誰かが抱き合っている姿が脳裏に浮かぶ。その誰かは女性ではなく男性だった。  こんなに傷だらけなのは、パートナーからDVを受けているのか、それともそういうの・・・・・が好きなのだろうか。  脳裏に浮かぶ様々な倒錯的な映像をかき消すかのように、暁星塵はぶんぶんと頭を振る。 (患者相手に何を考えているんだ、私は……)  悶々としながら彼の顔を眼鏡越しに見つめていると、不意に目が開いた。猫科の動物を思わせる大きな瞳に見つめられ、どきりとする。 「あ。金のこと心配してる? 今日はちゃんと持ってきたよ」  彼がポケットの中から封筒を取り出す。暁星塵が中身をあらためると、そこには100元紙幣がぎっしりと入っていた。 「これで足りるかな。足りない分は後で必ず払うから」 「い、いや、流石に多すぎる。こんなに沢山もらえないよ。それにどうやって調達したんだ?」  盗んだり、誰かを騙したりしていないだろうか。まさか、体を売ったりは……?  そんな考えが脳裏をよぎり、心配になって尋ねてみようかとも考えたが、さすがに失礼だと思いとどまる。  だが彼は暁星塵が考えていることなどお見通しのようだった。 「あはは、今変なこと考えた? これはちゃんと俺が稼いだ金だから」 「稼いだ? どこで何をして働いているの?」 「それは内緒! そんなことよりさ、早く治療してよ。暁星塵先生♡」  彼は暁星塵の手をとると勢いよく立ち上がり、診療室へと引っ張っていく。暁星塵は戸惑いながらも後に続いた。  修復した前歯に問題はない。抜歯した箇所の傷口にも感染はなく、順調に治癒していた。消毒薬で軽く洗浄した後、暁星塵は他の箇所にある小さな虫歯を順番に治療していく。全ての作業が終わるまでに一時間もかからなかった。 「うがいをして。治療はこれで終わりだ」 「えー、もう?」  彼はなぜか不満げだ。もっと時間がかかると思っていたのだろうか。それとも他に何か理由があるのだろうか。  その声を無視して、コップを渡す。暁星塵は彼が口をゆすいでいる間に器具を片付けていった。  彼はうがいをしながら壁の掲示物に目をやっていた。壁に貼られているのは、義診(無料歯科相談会)や貧困層の子供を対象としたボランティア治療のあとに届いた、感謝状や手紙の一部だ。 「これ全部あんたがもらったの?」 「母と私がいただいたものだよ。母はここ――抱山デンタルクリニックの医院長なんだ。母と言っても私は養子だから、血はつながっていないけどね」 「ふうん……」  彼は壁の前にしゃがみこむと、そこに書かれた“暁星塵”の文字を指でなぞる。 「患者がいなくなったら困るのはあんたら医者なのに、タダで治療するなんて矛盾してると思わないのか?」 「私は医者として当然のことをしているだけだよ。それに払える人から払ってもらえば大丈夫」 「そういうもんかな」  納得がいかないというように、彼は首をかしげる。そして立ち上がると、別のポスターを指差した。 「あっ、これ俺と同じやつ」  それは八重歯の審美治療を勧めるものだった。虫歯になりやすいという特徴や歯周病のリスクもあることから、八重歯の矯正をする人が増えているという説明書きが添えられている。 「八重歯が気になる?」 「うん、まあね。ガキの頃から虎の歯だって、かわれたりすることが多ったから」 「そうか……君の八重歯は可愛いと思うけどなあ」  思わず本音が出てしまったことに気づき、暁星塵ははっと口を押さえる。歯科医として“可愛い”という言葉は不適切だったかもしれない。慌てて取り繕おうと顔を上げると、彼はぽかんと口を開けていた。頬がみるみる赤く染まっていく。  まずいことを言ったかと焦っていると、突然彼が笑い出した。 「あはははは!」  何がそんなにおかしいのかと困惑していると、笑いすぎて目尻に浮かんだ涙をぬぐいながら彼が言った。 「可愛いってなんだよそれ! 歯医者が言っちゃだめだろ。それに、男からそんなこと言われたのは初めてだよ」  どうやら怒ってはいないらしいことにほっとする。 「ごめん、気分を害したなら謝るよ」 「別に気にしてないってば。あんた面白いやつだな」  そう言って笑う彼の笑顔は屈託がなく、眩しいほどだった。出会った時の剣呑な雰囲気はすっかり消え去っている。まるで別人のようだと思った。  帰り際、待合室の長椅子に脱ぎ捨ててあった上着を羽織りながら、彼はふと思いついたように口を開いた。 「今日は飴くれないの?」 「飴?」 「この前くれたじゃん」  そういえば先日の治療の後に、“虫歯にならない飴”を手渡したことを思い出す。彼にとっては治療後のご褒美のようなものだったのだろう。すっかり忘れていた。受付に置いてあるカゴの中から飴を取る。今度は一つではなく、ひとつかみ分。暁星塵がどっさりと手渡すと、彼は「こんなに!?」と嬉しそうに上着のポケットに入れた。パンパンになったポケットに、彼は満足そうな笑みを浮かべる。  扉の取手に手をかける直前、彼はふいにこちらを振り返った。 「あのさ、先生……」  なにか言い淀んでいる様子だったが、やがて意を決したように口を開く。  その目はなんとも儚げで、今にも泣き出しそうに見えた。飄々としていてつかみどころのない彼からは想像できないほど頼りなさげな表情だった。 「また、飴をもらいに来てもいい?」  答えはすぐに出た。考えるまでもないことだった。 「もちろん。だけど名前くらい教えなさい。予約をもらっても君だとわからないのは私が困る」 「大丈夫、次も午後7時50分に来るよ。それなら予約もいらないだろ?」  青年は、じゃあまた来ると言い残し、夜の闇に溶けるように去っていった。  暁星塵はその後ろ姿をじっと見つめていた。  数週間後の朝。暗い雲が空を覆い、雨粒が窓ガラスを叩きつける音が響いていた。  荒れる外の様子を横目に、いつものようにニュースをチェックしている時のことだった。  テレビ画面に映し出されていたのは、昨夜とある反社会的勢力が一斉検挙されたというニュースだった。テロップには“地下格闘技賭博場摘発”と書かれている。画面の中でリポーターが興奮気味に実況していた。  曰く、賭博場の売り上げが反社会的組織の活動資金になっていたことなどが明らかにされたのだそうだ。その賭博場で働いていた者たちは全員逮捕されたが、その中には地下格闘技の選手も含まれていたという。青と赤の回転灯に照らされながら連行される若い男らの中に、見覚えのある顔を見つけた。  手にしていた白湯の入ったマグカップを取り落としそうになる。  間違いない、あの青年だ。  屈託のない笑顔はなく、すねた子供のような瞳が印象的だった。  彼の顔が大きく映し出されたところで、暁星塵はテレビの電源を切った。途端に静寂に包まれる室内。窓を打つ雨音だけが響いていた。 (自分で稼いだ金だと言っていたが、まさかこんな仕事を……)  胸がざわつくような心地がした。これが、彼が頑なに身元や職業、そして名前を明かさなかった理由なのだろうか。  彼が話したことや、見せた態度。その点と点が一本の線で繋がったような気がした。 「先生、今日も残業されるんです?」  受付で書類を整理しながらデータのチェックをしていると、帰宅しようとするスタッフの一人に話しかけられた。 「ああ……もう少しだけ。気にしないで、先にあがって」 「わかりました。あまり無理なさらないでくださいね。医院長先生も心配されてましたから」  気遣わしげな視線を残しながらも、彼女は去っていく。  自分以外が帰ったあとの院内は静かだった。一人きりの空間にキーボードを叩く音が響く。時折、外から聞こえる車が走る音以外は何も聞こえない。 『また、飴をもらいに来てもいい?』  脳裏に蘇るのは彼を治療した夜の事ばかりだった。  あの日以来、彼の姿を見ていない。  さしあたり治療は一通り終わっているし、次の予約も入っていない。  受付におかれたカゴの中の飴が少なくなっていることに気づいて、暁星塵はため息をつく。  そろそろ補充しておかなければ。いつ彼が来てもいいように。    今夜も扉を叩く者は現れないかもしれない。  それでも、午後7時50分までは待とう。  暁星塵は時計を見た後、再びデスクに向かった。