「道長、なんでさっきあの人に名前を教えなかったの?」
あたしは両手で頬杖をつき、唇を尖らせて尋ねる。
しかし厨房に立つ道長はその問いには答えようとせず、雉の尾羽を丁寧に引き抜いていた。尾羽を抜き終わると今度は包丁で翼を肩から切り離し、手際よく羽を皮ごと胴体から剥がしてゆく。
一通り羽をむしり終えてから、ふう、と一息つき、道長はようやく口を開いた。
「こんなに立派な雉が手に入ったのですから、その話はもういいでしょう」
「よくない! 道長がバケモノをいっぱい退治して名を揚げれば、きっと困ってる人が道長を頼ってたくさん来るでしょ? そうなったらお金がたくさん稼げるし、あたし達の暮らしももっと楽になるのに……」
納得いかなかった。あの時道長はなぜ名乗りもせずに立ち去ってしまったのだろう。名声を得るために人助けをしているわけではないという信条はわかるのだが、それにしてももったいない。
ぶつぶつと文句を言うあたしに、道長は困ったように八の字を寄せて微笑むだけだった。
遡ること数刻前。義荘で生活を共にしているあたしたち三人が、連れ立って遠くの街まで買い出しに行った帰り道でのことだった。
道長とあいつは牛が化けた妖に追われていた男とその家僕たちを助けたのだ。まだ日も高かったけれど、陰気が濃く漂うこの辺りでは、夜間でなくともしばしば妖魔鬼怪が現れるらしい。
あいつが妖を引きつけている隙に、道長の剣落霜天が炸裂する。青白い閃光と共に氷の刃が空を切り裂き、妖の身体を深々と貫いた。断末魔の叫びを上げた妖は、気づけば跡形もなく霧散していた。
ふたりの息の合った見事な連携を目にした男たちは、ただただ感嘆の声を漏らすばかりだった。隠れているよう道長に言われて大木の陰にいたあたしも、思わず盲のふりをしていることを忘れて拍手しそうになったくらいだ。
身なりの良い若い男は地面に額をこすりつけんばかりに何度も何度も頭をさげ、道長とあいつに感謝の言葉を述べた。
「実は間もなく初子が生まれるのです。もしよろしければお二方の名前から一文字ずつ頂戴して、赤子の名にしたいのですが……。どうかどうか、お名前を教えてくださいませんか」
そう乞われて、あいつは一瞬顔をこわばらせたように見えた。そして無言のままちらりと傍らの道長を見る。その視線に気づいているのかいないのか、道長は流れるような手さばきで剣を鞘に収め、男に向き直った。
「名前、ですか」
その時あたしはひらめいた。
(この男はこの近くの町に住む権力者の息子だっていうじゃない。この男に恩を売っておけば、絶対に後々役に立つはずだわ)
あたしは竹杖をつきながら男たちの前へと歩み出た。そして胸を張り、顎をつんと上げる。
「お兄さん、よ~~くおぼえておいて。この強くて優しくて賢くて素敵な仙師様の名前はね……」
まるで自分の功績を自慢するかのようにあたしが滔々と語り始めたところで、道長がその言葉をやんわりと遮った。
「いえ、私たちはまだ修行中の身。名乗るほどの者ではありません」
「そんな! 命の恩人のお名前も聞かずに帰ったとあっては、先祖にも顔向けできません!」
男は必死に食い下がったけど、道長はあくまで首を横に振るばかりだった。何度か同じやりとりを繰り返した後にとうとう折れた男が、ではせめてこれを……と差し出したのは大きな雉だった。まだ生きていて、元気よく羽根をばたつかせている。
身重の妻に食わせてやろうと手ずから狩った雉をいただくわけにはいかない。そう固辞する道長だったけど、結局押し切られる形で受け取ることになった。
そしてその雉は、今まさにあたしの眼の前でコトコトと煮込まれ、夕餉の一品として供されようとしている。
「おー、こりゃいい匂いだ! 昼間の雉か?」
「ええ。少し味見してみて」
ずかずかと厨房に入ってきたかと思うと、あいつは待ちきれないとばかりに鼻をひくつかせる。道長が手にした匙からひと掬いした汁を口に含み、たちまち破顔した。
まったく何も手伝いもしないで、本当にいい気なものだ。
だいたいね、あたしたちにすら素性を明かさないあんたがいたから、結局あの男に名前や恩を売ることができなかったんじゃ――。
そこまで考えて、あたしはハッとした。
もしかして道長が頑なに名を明かさなかった理由って、こいつのため?
もし道長だけがあの男に名前を明かしていたら、こいつも名乗らないわけにはいかなかっただろう。それを慮って道長は敢えて教えなかったのだとしたら……。
あいつは変わらず楽しげに笑いながら、できあがったばかりの雉の汁物を椀によそっている。
道長の目の前には雉の肉がうず高く盛られた椀が置かれた。ふわふわと立ちのぼる湯気からは、食欲をそそる香りが漂ってくる。思わずごくりと喉が鳴った。
「君、ちょっと多すぎませんか」
「……そんなことない」
「こんなにたくさん食べられませんよ」
ずっしりと重そうな椀を手にした道長は困惑気味に言うが、あいつは意に介さない様子だ。
「ごちゃごちゃうるせぇな。いいからだまって食えよ。ほらチビ、お前も!」
一方あたしの前に置かれた椀は、肉の切れ端が申し訳程度しか入っていない。本当の盲だったとしても、この明らかな椀の軽さで気づかないわけがないだろう。
「なんであたしはこんなに少ないのよ!?」
「アハハ! お前はチビだしなんにも働いちゃいないんだから当たり前だろ。道長、あんたはもっと食って精をつけろよな」
あいつがにやにやしながら言うと、道長は困ったような、それでいてなんだか嬉しそうな表情を浮かべていた。
(ああもう! 道長ったらなんでこんな奴のために……)
あたしは木の匙を投げつけたい衝動をぐっと堪えた。手の中でそれがみしりと軋む。
ふたりのやりとりを白瞳で見ながら、怒りに任せてやけくそのように汁物をかきこんだのだった。