ビニール傘狂想曲

 壇上の教授の話を聞いているふりをしながら、横目で窓の外を見る。濡れた石畳が風にあおられて白くけぶっていて、いつもはベンチで談笑する学生達が見える中庭もひとけがなかった。  天気予報によると今日は曇りのはずだった。だが昼を過ぎた頃から空模様が怪しくなり、この西洋音楽史の講義が始まる頃にはすっかり本降りだ。  雨は嫌いではない。ざぁっと降る音や水たまりに落ちる雨粒の音は耳に心地よいし、遠くから聞こえるピアノの音と調和して旋律を奏でているようで、私はその穏やかな響きを美しいと思う。  ただ、今日に限ってはひとつだけ気がかりがあった。  ――彼は、大丈夫だろうか。  彼は夕方までバイク便のアルバイトだと言っていた。おそらくこの土砂降りの中バイクを走らせているのだろう。濡れ鼠になって奔走する彼の姿が目に浮かぶ。  風邪をひいたり、事故に遭ったりしていないといいのだけれど……。  そんなことを考えていると、机の片隅に時計代わりに置いてあったスマートフォンが震えた。画面を見ると、彼からのメッセージだった。 『バイトはもう切り上げた』 『ひどい雨だな』 『今日はバイオリンのレッスンないんだろ?』 『泊まっていい?』 『一緒に帰ろうぜ』 『裏門にいる』  私からの返事など待たずに次々とメッセージが飛んでくる。それに、私の専攻楽器はバイオリンではなくヴィオラなのだが、何度言っても覚えてくれない。今ではすっかり慣れたけれど、最初は彼の自由気ままなペースについて行くのが大変だったことを思い出す。それでも、今は一緒にいることが当たり前のようになっているから不思議だ。  私は口元が緩むのを教授に悟られないようこっそり咳払いして誤魔化すと、手早く返事を打ち込んだ。  大学の裏手門に到着すると、ビニール傘をさした彼が私を見つけてぶんぶんと手を振っていた。そのうえ飛んだり跳ねたりしているので、通りすがりの学生達が何事かと彼を見ている。まるで子供だ。 「おー。遅かったじゃん」  彼はラフなTシャツ姿で、その上に薄手のパーカーを羽織っていた。左手にはコンビニ袋を提げている。仕事中雨に降られて濡れた前髪は、拭いたのだろうがまだしっとりと湿って額に張り付いており、普段よりもずいぶん幼く見えた。 「ごめん。ちょっと教授に捕まって。ん、どうしたのそれ」  彼のビニール傘の持ち手には、彼の雰囲気とは不釣り合いなものがぶら下がっていたのだ。  アンブレラチャームだ。大きなピンク色のリボンに、所々にパールがあしらわれた金色のチェーンがついている。可愛らしいデザインのそれは、どう見ても女性用のものだった。 「ああ、これ? コンビニの傘立てから拝借してきた。可愛いだろ」 「拝借……って、君……!」  持ち主の同意なしに勝手に持ってくるなんて、窃盗じゃないか!  私は唖然として二の句が継げなくなってしまった。しかし彼は悪びれる様子もなく、へらりと笑ってみせる。 「傘持って歩くのってダルくないか? だから雨が降ったら“現地調達”して、いらなくなったら“返却”することにしてるんだ」  彼が持ち主に返却することなどあるはずがないことは明らかだった。  以前彼のアパートを訪れた時、玄関にビニール傘が何本か無造作に積み重ねられているのを見かけたことがあるのだ。その時は特段気にも留めなかったが、今思えばあれらは全部今日のように失敬してきたものなのだろう。 「……阿洋。一緒に傘を返しに行こう」 「はあ? なんで!?」  彼はきょとんとした顔で私を見上げた。どうしてそんなことをしなければならないのか、まったく理解できないという顔だ。  育った環境の違い、価値観の違いと言ってしまえばそれまでだが、私にはとても受け入れ難いことだった。  私がため息をついて首を振ると、彼はしばらく唇を尖らせていた。プラスチックの露先から、ぽたぽたと水滴が滴り落ちる。  やがて諦めたように小さくため息をつくと、渋々といった様子で頷いた。 「わかったよ、行こうぜ」 「ありがとう。さあ、私の傘に入って」  私はほっと胸を撫で下ろした。  彼はおとなしくビニール傘を閉じ、折り畳み傘の下にするりと入ってきた。バサバサと豪快に露を払ってからボタンで留める。仕上げにアンブレラチャームをきれいに整え、私の顔をのぞき込むように見上げてきた。  先程までの拗ねたような面もちは、いつの間にか消え去っている。彼が八重歯を覗かせて悪戯っぽい笑みを浮かべていることに気づいた私は、一瞬身構えてしまった。この表情は、彼が何か良からぬことを企んでいるときの顔だと知っているからだ。 「傘を返すとか言って、星塵。さては……」 「なに? ちょっと、わっ!」  彼はぴったりと身を寄せて腕を絡ませてきたかと思うと、ちゅっと音を立てて頬に柔らかな唇を押し当ててきた。予想の斜め上をいく出来事に驚いて身を硬くしている間に、さらにちゅ、ちゅ、と何度も啄むようなキスを顔中あちこちに降らせてくる。 「こうやって俺と相合い傘でイチャつくための口実なんじゃないか? お前ってほんっと、むっつりすけべだよな~~」 「ち、違……君、外でなんてことを……」 「ふはっ。どうせ誰にも見えやしないよ。お金持ちのお坊っちゃまのお高級なお傘は、こういう時に便利だな」  なるほど確かにビニール傘ではこうはいかない。この折り畳み傘は透明ではないのだから、傍目にはただ寄り添って歩いているだけにしか見えなくもな…………いやいや無理がある!  これではただのバカップルだ。  顔を赤くしたり青くしたりする私とは対象的に、彼はずいぶん上機嫌な様子だ。わざとらしく頭をすり寄せたり腕に抱きついたりして、にこにこと笑っている。  雨の湿気のせいか、はたまた気温が高いせいか。いつもより彼の匂いが強く感じられるような気がして、余計に落ち着かなくなってしまう。顔が熱い。  年上をからかうな、と言ってやりたいが、こういう時に限って強く嗜めることも、咄嗟に気の利いた言葉で切り返すこともできない自分の口下手さが恨めしかった。  何か別の話題を振って気を逸らさなければ。  あれこれ考えを巡らせているうちに彼が手に提げたコンビニ袋が目に入り、思いつくまま尋ねてみた。苦し紛れなのは否めないが、この際仕方がない。 「ええと……阿洋、コンビニで何を買ったの?」 「ン、泊まりだからいろいろ必要かと思って。酒だろ、煙草だろ、漫画だろ、飴だろ……」  彼はそう言いながら、ガサガサとビニール袋を漁る。外泊とは無関係のものばかり入っているような気もするが、まあいいだろう。彼にとっては必要なものなのかもしれない。 「あ、あとコレ! おまえんち、防音が効いてるからいいよなぁ♡」  私の目の前にずいと差し出されたのは、“0.01”と大きく印刷された箱だった。 「……阿~~洋~~~~!!」  ふたたびおかしな声が出てしまい、行き交う学生達の色とりどりの傘が一斉にこちらを向く。  けれども彼は、やはりなぜ咎められたのかがまるでわからないらしく、不思議そうに首を傾げていた。