迷い猫

「ただいま道長……は、なんだぁ? そいつは」  どさり、竹籠が床に落ちる。続いてごろごろと芋や野菜の転がる音が、黄金色の光が差し込む暮れ方の義荘に響いた。  薛洋の声には、当惑と怒気、そして僅かな焦燥が滲んでいる。  狼狽するのも無理はない。  買い物に出かけるまではいなかったはずのモノが、そこに鎮座していたのだから。 「ああ、おかえりなさい。どうしたものか……参りました」 「どこかから入ってきて出ていかないの。迷い猫だよ。道長の膝の上が気に入っちゃったみたいで、全然どいてくれないんだって」  そこには、ずっしりと重そうな茶色の塊があった。まんまるの目でこちらを見上げ、小さな鼻をひくつかせている。  暁星塵の隣にかがみ込んだ阿箐が、猫ちゃん猫ちゃんこっちにおいで、と甘ったるい声で言いながら探るように手を伸ばす。  だがその気配を察するやいなや、猫はシャーッと牙を剝いた。   「きゃっ、なんなのこいつ。道長にはべったりなのに!」  威嚇の声に動転し、ぴゃっと飛び上がるように手を引っ込めた彼女を見て、薛洋は腹を抱えて笑った。   「お前みたいなキンキン声のうるさい小娘は嫌なんだろ。かわれ、俺がどかしてやる」  薛洋が猫の首根っこを掴んで持ち上げようと試みるが、猫は全身の毛を逆立てて抵抗した。  爪を出して薛洋の手を引っ掻き、噛み付こうと激しく暴れるものだから、彼の手にはみるみるうちに赤い線が増えていく。   「痛ぇ! この野郎。くそっ、大人しくしろ……皮を剥いで煮て食うぞ!」 「ぷぷぷっ、偉そうに言ったくせに、全然ダメじゃない」  手負いの獣のごとく暴れる猫に、薛洋もむきになっていた。だが、どうにもうまくいかない。猫も興奮冷めやらぬ様子でフーッフーッと息を荒らげている。   「乱暴はよしなさい。あまり怖がらせてはかわいそうですよ」  暁星塵が諭すように言うと、薛洋は舌打ちをした。自分ですらまだ触れたことのない場所に、どこの馬の骨とも知れぬ猫が図々しく居座っていることが許せないのだ。  猫は依然として膝上から動こうとしない。暁星塵が優しく頭を撫でると、ぐるぐると喉を鳴らしながら掌に頭を擦りつけてきた。猫はすぐに落ち着きを取り戻し、居住まいを正すかのように足を揃えて座り直す。やがて細長い尻尾をするりと体に巻き付けて、ふたたびその場で丸くなった。   「ずいぶん体格が良いですし、人に慣れていますね。きっと迷子になった飼い猫か、そうでなければ捨て猫かもしれません」  暁星塵が言うように、猫の身体は見るからに筋肉質でがっちりと引き締まっており、栄養状態の良さを感じさせた。確かに、野良にしては毛並みも滑らかだ。美しい濃褐色の斑点模様が、挙動にあわせて艶やかに光る。野性味の中にもどことなく気品があった。   「縁があってここに迷い込んでしまったのですから、飼い主が現れるまでは面倒を見ましょう。それに、家族は多いほうが楽しいものですよ」 「ふん……」  家族という響きにぴくりと小さく反応したことに、気づく者はいない。薛洋は不満げに口を尖らせたが、結局、それ以上の文句を言うことはなかった。  阿箐はと言うと、もうすっかり機嫌を取り戻していて、おっかなびっくり猫の背中をつついたりそうっと撫でたりしている。彼女は好奇心旺盛な性格だし、何より動物が好きなのだろう。  暁星塵に教えられたとおり、ゆっくりと慎重に手を伸ばし顎の下を撫でてやると、猫は気持ちよさそうに目を細めた。  こうして、義荘に新しい同居人が増えた。  不思議なことに、誰もその猫に名前をつけようとはせず、“君”だの“猫ちゃん”だの“茶色いの”だの、各々が好き勝手に呼んだ。  それから数日が過ぎても猫を探しに来る者は現れず、誰かが猫を探しているいう話も町で耳にすることはなかった。  猫は一向に出ていく気配がない。そればかりか、日増しに暁星塵への甘えぶりが増していった。  食事時には暁星塵の隣に陣取り、彼の食べ残しをねだって甘えた声を出す。阿箐が丁寧に畳んだ白い衣の上にも、猫は気がつけばどっしりと居座っていて、満足げにあくびをしている始末だ。  猫はとりわけ暁星塵の膝の上がお気に入りのようだ。彼が腰を下ろせばすかさず膝に飛び乗り、太腿の上で香箱を組む。暁星塵の膝の上は、もはや猫にとっての指定席となりつつある。 「こいつオス猫のくせに、道長にベタベタしやがって……!」  薛洋が憎々しげに吐き捨てても、当の猫はどこ吹く風といった様子だ。涼しい顔をして、長い尻尾をゆらゆらと揺らしている。自分の方が暁星塵と親密なのだ――まるでそう言わんばかりに堂々と振る舞っているように見えるのは、薛洋の思い過ごしだろうか?  暁星塵はというと、そんな猫を怒るでもなく好きにさせている。時折耳の裏を掻いてやったり、喉を撫でてやったりしながら、穏やかな微笑みを浮かべていた。  ◆  事態が急変したのは、ある寒い朝のことだった。   「猫ちゃ~ん、猫ちゃ~ん! どこ行ったの~?」  その日、阿箐は竹杖と餌皿を手に、朝から義荘をうろうろと歩き回っていた。この時間はいつもは呼ばなくても寄ってくるくせに、今日に限ってどこにもいないのだ。   「そういえば、昨夜から気配がありませんね。めずらしく布団にも潜り込んで来なかったし……君、見かけませんでしたか?」 「さあ、知らねぇ。外でネズミでも獲ってるんだろ」  目障りな邪魔者がようやく消えたという知らせに内心清々していたが、薛洋は努めて素っ気なく答えてそっぽを向く。  一方暁星塵と阿箐は、心配そうに顔を曇らせた。  ふたりは猫の行方についてああでもないこうでもないと話し合ったが、これといって良い案は浮かばない。 「元来猫は自由な生き物です。我々の都合で縛りつけるわけにはいきません。どこかで元気でやっていることを祈りましょう」  そう言って、暁星塵は淋しそうに微笑んだ。  猫は自由奔放で、気分屋なのだ。きっと新天地を求めて旅立ったか、飼い主の元へ帰ったのだろう。ふたりはそう結論付け、無理に探し回ることはしなかった。  そこにいるのが当たり前になっていた存在。それが突如として消えてしまった喪失感は、そう簡単には拭えないものだ。すっかり猫に情が移ってしまっていた阿箐は、その後もしばらくの間元気がなかった。いつもの毒舌も鳴りを潜め、口数も少なくなり、ぼんやり考え込むことが増えたようだった。 「あのちび、猫がいなくなってずいぶん落ち込んでるみたいだな。ま、そのお陰でここが静かになって助かるけど」 「そんなふうに言ってはいけませんよ。あの子はあの子なりに、愛情を注いでいたのですから」  意地悪く言う薛洋を、暁星塵は少し困ったような表情を浮かべて窘めた。   「じゃあ道長様も、茶色がいなくなって傷心真っ只中か」 「傷心というほどでは……。淋しくないと言ったら嘘になりますが、ここには君も阿箐もいますから」 「ふぅん、どうだかな。あっ、今度は茶色の代わりに俺やちびを膝に乗っけて可愛がろうなんて考えてないだろうな? 勘弁してくれよ」  薛洋は大袈裟な声振りで言う。口調はあくまで揶揄するような調子だったが、どこか拗ねた含みがあることを、暁星塵は聞き逃さなかったようだ。   「君……」  ハッとして顔を上げた彼は、薛洋の方に向き直る。そしてみなまで言うなとばかりに片手をあげ、今度はその手を太ももの上にそっと置いた。ぽんぽんと軽く叩いて見せながら、にこりと微笑む。   「そういうことでしたか。すみません、気がつかなくて」  薛洋は一瞬眉間に皺を寄せたが、すぐにその意味するところを理解した。たちまち頬が赤く染まり、口元がひくひくと引き攣った。   「俺の話聞いてたか?」 「ええ、もちろん。違いましたか……?」 「違うに決まってるだろ! 俺はあんたの膝枕なんか、これっぽっちも興味はない」  茶色がいなくなって淋しいってあんたが言うから、仕方なくかわりに乗ってやってもかまわないってだけで、全然、まったく、あの猫が羨ましかったとかそういうんじゃない。それにそもそも男の膝枕なんて硬いだけで寝心地が悪そうだし、第一、俺は――……。  心の中で氾濫する言い訳の数々が、あやうく口からこぼれ出てしまうところだった。いや、言わずとも伝わってしまったかもしれない。その証拠に、暁星塵はさもおかしそうにくすくすと笑っている。   「さあ、遠慮はいりませんよ。おいでなさい」 「……ちびには絶対に言うなよ」  暁星塵がもう一度膝の上をぽんと叩くと、薛洋は苦々しい顔のままそこに頭を預けた。  硬い。枕としては最悪だ。暁星塵の膝枕は想像していた以上に硬くて、寝心地が良いとはとても言えない。だが、悪くはないと思った。他人に体重をあずけ身を委ねるのは、存外悪くないものなのだと、初めて感じた。暁星塵の体温がじんわりと伝わって、先ほどまでのささくれた気持ちが安堵に溶けて消えていくような気がした。  ――あの猫も、こんなふうに満たされていたのだろうか。迷い込んだ場所で出会った、お人好しの道士の膝の上で。  そんな考えがふと頭をよぎった。 「大きな猫だこと」 「うるせぇ」 「ふふ、よしよし」 「撫でるな」 「はいはい」  猫の被毛を梳くように、暁星塵は指通りの良い髪を優しく撫でる。薛洋は憎まれ口を叩いているものの振り払おうとはせず、大人しくされるがままになっていた。  白く大きな手が頭を撫でてくれる感触にうっとりと目を閉じれば、次第に心が凪いでくる。悔しいが心地よかった。これが欲しかったのだと認めざるを得ないほどに。 「本当に、あの猫はどこに行ったのでしょうね……。突然現れたと思えば、急にいなくなるなんて」  また迷子になっていなければよいのですが。  そうぽつりと呟いた言葉は、誰に宛てたものでもない、暁星塵の独り言のようだった。  薛洋は鼻で笑い、皮肉っぽく口の端を上げる。   「猫は薄情って言うだろ。ここでの恩も俺たちのこともとっくに忘れて、きっとどこかで楽しくやってる」  薛洋の髪を撫でる手がふと止まった。逡巡するようにうつむいた暁星塵の表情が翳る。   「――君も、いつか黙ってここから、」 「俺は猫でも迷子でもねぇ」  言い終わる前に、薛洋は暁星塵の言葉を遮った。  最後まで紡ぐことなく飲み込まれた問いのかわりに、ふふっと小さな笑い声が降って来る。  暁星塵はそれ以上何も尋ねず、ただ黙ったまま再び手を動かし始めた。