隣の成美君

 いつものように面会者用のパイプ椅子を僕のベッドのすぐ横に置き、そこに座った彼はうきうきとした声風で言った。 「お待たせ道長。さて今日は何を作ろうかな」  僕を『道長』と呼ぶ彼は、看護師達の目を盗み、この小児病棟の入院個室によく遊びに来る少年だった。名は成美チョンメイと言った。ひとつ年下の10歳で、交通事故に遭い手足に大怪我をした為、僕よりも前から隣の個室に入院しているのだという。  最初の目の手術を終えたばかりの僕は、両目をガーゼで覆われていて何も見えない。そのうえ母は仕事の都合で常に付き添っていられるわけではなかったので、独りになるとどうしても心細く鬱々とした気持ちになってしまった。だが彼は不思議とそういうタイミングでこっそりと病室を訪れてくれて、二人で過ごす時間は目の痛みも不安も忘れていられたのだ。  明るくて冗談が得意で、いつも僕を笑わせてくれる彼が本当に大好きだった。 「足はまだ痛いけど、手はもうだいぶ良くなったからさ……こうやって動かしてた方が完治がきっと早いよ」  鼻歌と共に、チョキチョキ、シャキシャキ、とハサミで紙を切る音が聞こえる。彼は彼曰く『手先が器用』らしく、簡単な動物や果物などを剪紙せんし(切り絵)で作り、それを僕が手で触れて何か当てるという遊びをよくやった。  出来上がった剪紙を手渡され、指の腹で慎重にその表面を撫でて形を探る。とんがってる部分は角? いや耳かな。 「これは多分動物……うーん、うさぎ?」 「ハハハ、残念はずれ! 猫でした~~! はい、この大傑作は道長にやるよ」 「ありがとう。目が見えるようになったら本当に傑作か確かめるからね。あ、飴食べる? 今日見舞いに来てくれた友達からの差し入れがあるんだ。その引き出しを開けてみて」  成美は甘いものに目がないらしく、飴をあげると大げさなくらい喜んだ。  そういえば少し前に、なぜ僕を『道長』と呼ぶのか尋ねたことがあった。  彼が繰り返し見るという奇妙な夢の中には、決まって僕と同じ名の『暁星塵道長』という大人の男が出てきて、毎日飴をくれる。そしてその男は白い服を着て目を包帯で覆っていて、その姿までもが今の僕にとても似ているのだそうだ。だから、僕のあだ名は『道長』なんだって。 「夢では道長から飴をもらいたくて良い子にしているのに、結局いつも二人は大喧嘩するんだ」 「へぇ、成美も夢の中では大人なんだよね? 道長とはなんで一緒に暮らしているんだろう。家族なの?」 「家族……いや、えっと……道長とは多分、うんと……」 「?」 「……なんでもない」  成美は急に黙ってもごもごと口ごもっていたが、ふう、と大きく息を吐いて仕切り直し話を続けた。 「それでね、道長は最後に寝込んで全然起きなくなっちゃってさ。俺は隣でずっと泣いて暮らしてるんだ」 「そう、なんだ」 「……星塵と俺はそんな風にならないよな?」  そう言って成美は急に僕に抱きついてきて肩に顔を埋めた。その声は、いつもの様子とは違ってずいぶんか細く悲しげだ。 「僕たちはこうやって仲良くしてるんだから大丈夫だよ。不思議な夢だけど、夢は夢なんだからあまり気にしない方がいいんじゃないかな」  彼を落ち着かせるように背中をポンポンと叩いてやると、肩口から鼻をすする音が聞こえた。  しばらくしてから、僕は二回目の手術をすることになった。手術は成功したけれど、数日間高熱が出て意識が朦朧としている状態が続いた。相変わらず目を開けることはできないし、今が昼か夜なのかも曖昧だった。目も手足も燃えるように熱かったのを憶えている。 (もしかして、死ぬ時ってこんなかんじ?)  夢うつつで考えていると、ふと耳のすぐ側で成美が僕を呼ぶ声が聞こえた気がした。 「さよなら道長、楽しかった。今までありがとう」 (さよなら? 成美、退院するの?) 「もう行かないと。……俺のこと忘れないで」  頬にふに、と柔らく温かなものが触れるのを感じた。 (待って! まだ僕は君のことを何も知らないのに。行かないで、ずっと側にいて欲しいんだ)  大声で叫びたいのに喉がカラカラで声にならない。闇雲に手を伸ばすが、何も掴むことはできずむなしく空を切った。そこからの記憶はない。  さらに数日が過ぎた頃にようやく熱が下がり、僕の目はいくらか視力を取り戻していた。時間が経てばもっと見えるようになるだろうと主治医は言った。  僕は気になっていた事を、思い切って採血をしにきた看護師に尋ねてみた。 「看護師さん、隣の病室の成美君はいつ退院したんですか? どこに住んでるか知ってますか」 「成美君? そういう子は入院していなかったと思うけど。それにこの部屋は角部屋で隣はリネン室なのよ」 「えっ……本当に? 交通事故で入院していた子です」 「ここ最近はこの病棟にそういう子はいないわね。熱で夢でも見たのかしら」  僕は愕然とした。  母に聞いても、別の看護師に聞いても、そういう子は知らないと言う。  思えば彼はいつも大人の目を盗んで病室に来ていて、「バレると怒られるから絶対に誰にも言うな」と事あるごとに釘を刺された。だから僕は彼の事を誰にも話したことはなかった。「いつか連絡するから連絡先を交換しよう」と提案した時は、上手に話をはぐらかされて結局お互いに名前しか知らないままだった。  ここに成美がいたという証拠は、僕の記憶以外何もないのだ。  母や妹は「それ絶対お化けだよ~!」とわぁわぁ騒いでいたが、僕は不思議と怖いとか恐ろしいとか、そういう感情は湧いてこなかった。  退院する日に病室で荷物をまとめていたら、妹の阿箐が「お兄ちゃん、これなぁに?」と側にやってきた。妹が手にしていたのは赤い紙で作られた何枚かの剪紙だった。  ……なぜ忘れてたんだろう。ベッドの脇の引き出しに、成美の『傑作』をしまっておいた事を僕はようやく思い出した。 (成美は、やっぱりここにいたんだ)  剪紙を受け取り一枚一枚眺めてみると、どれもこれも大雑把でひどくいびつな形をしており、どう見ても上手いとは言い難いものばかりだった。これでは触って当てられるわけがない!  悲しいけれど、でも少し可笑しいような不思議な気持ちで、僕は声をあげて笑った。 『不気味な猫らしきもの』の剪紙を手に泣き笑いしている僕を見て、妹は「お母さんお母さん、お兄ちゃんが変だよ!」と、慌てて母の方へ駆けていった。  彼がお化けでも、そうでなくても、どちらでも良かった。成美と過ごした時間がここに存在していたのは確かなのだから。  僕は下手くそな剪紙を折れないように丁寧に鞄にしまい、その日病院を後にした。