前もって聞かされてはいたが、バイト先の食堂はこの時期とにかく忙しい。クリスマスイブも当日も休みなく働く。クリスマスから年末にかけても当然休む暇はほとんどない。店にとってはかき入れ時なのだ。家に帰れば疲れてすぐ寝てしまう毎日だった。
2022年最後の日、23時を過ぎた頃。ようやく仕事が片付いた薛洋は、這いずるようにして恋人が待つアパートに帰った。
「ただいま……マジで疲れた……洒落にならねぇ死ぬ」
リビングに足を踏み入れるなり、薛洋はソファに座った暁星塵の膝の上に倒れ込んだ。もう一歩も動けない。体が鉛のように重いし頭も痛い。完全にエネルギー切れだった。
「おかえり、お疲れ様」
暁星塵は自分の膝上に突っ伏した薛洋の頭を優しく撫でる。その感触が心地良くて、薛洋は無意識に頭を掌に押し付けた。暁星塵はクスリと笑って、まるで犬でも可愛がるように両手でわしゃわしゃと薛洋の髪を掻き混ぜる。
「遅いけど少し晩ごはん食べる? 母に聞いて紅焼肉を作ったんだ。玉子も入ってる。温めてくるよ」
「いや、もうちょっとこのまま。充電させてくれ」
「あはは、いくらでもどうぞ」
TVからは賑やかなバラエティ番組の音が流れてきていた。芸能人たちがワイワイ騒いでいるが、薛洋の耳にはもう何も入ってこない。ただ、この膝枕の温かさだけが全てだ。
しばらくそうして撫でられていると、暁星塵が口を開いた。
「……今年一年、君は本当に頑張ったね。住所不定・職業不詳の不良少年が、こんなにきちんと仕事をするようになるなんて」
薛洋は照れ隠しにフンッと鼻を鳴らす。そして、別に大したことないさ、と答えた。暁星塵は優しい手付きで髪を梳きながら続ける。
「それにお風呂に入る前、脱いだ服を床に放り投げなくなったし、ラーメンを鍋から直接食べなくなった。僕が起こさなくてもお昼には起きられるようになった」
一つ一つ褒めてもらえることがなんとなく嬉しかった。よくよく考えれば、全部当たり前の事ばかりなのだが。薛洋は黙って耳を傾けていた。
「あっ、そうだ。道を歩いている時に、突然女の人に殴られたり追っかけられたりしなくなった」
「それはいいかげん忘れろよ! 俺はもう女に金を借りたり、ヒモもやらねぇよ」
薛洋は拗ねたように口を尖らせる。女性とのだらしない交友関係は、とっくに清算済みである。
「そういえばギャンブルもやめたよね」
(うっ……。麻雀はまだ隠れてやってる)
しかし、暁星塵があまりに嬉しそうに笑うので、それは言い出せなかった。
「君は今年とても成長した。とても路上のゴミ捨て場に落ちてた不良少年とは思えないくらいに」
「……一生言い続けそうだな、それも……」
恥ずかしい過去を掘り起こされて、薛洋は思わず赤面する。
早いものだ。暁星塵と出会ってから一年とちょっとが過ぎただろうか。
あの頃はどうしようもないチンピラで、悪さばかりしていた。去年の初冬もつまらない諍いが原因で喧嘩をして、ゴミ捨て場で行き倒れていたところを、たまたま通りかかった暁星塵に助けられたのだ。
「お前って変わってるよな。素性の知れない男を拾ったうえ、普通に付き合ったり同棲までするなんてさ」
「そうかな?」
「そうだろ」
“ルームシェア”してるのが自分のような奴だなんてバレたら、親御さんが悲しむんじゃないか。警戒心が薄すぎてこちらが心配になるくらいだ。
「もしさ……まだ俺が昔の仲間とつるんで、影で悪い事を続けてたらどうするつもりだよ。お前の家が金持ちだって知ってて利用しているだけかもしれないぜ? そしたら別れるか?」
軽い調子で尋ねたが、それはほんのわずかに、けれどいつも心の片隅にある不安だった。
自分は決して善人ではない。いくら暁星塵と出会っていくぶんマシになったとはいえ、根っこの部分はそう簡単には変わらないはずだ。いつかまた昔のような生活に戻るかもしれない。そうしたらこいつはどうするだろう? そもそも、どう考えたってこんな育ちの良いお坊ちゃんとは住む世界が違う。いつ終わりが来てもおかしくはない関係なのだ。
膝の上からそっと見上げると、暁星塵はいつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべている。
「そうだな……もしそうだったら――」
その時、部屋の外でドンと大きな音がして、暁星塵の言葉を遮った。ビリビリと窓ガラスが震えるほどの衝撃だった。
花火の音だ。ドォン、パラパラという音が立て続けに響いた。
「あ、引っ越す時不動産屋さんが言ってたアレだよ。春節ほどではないけど、今夜もすぐ近くで年越しの花火が上がるらしい。見に行こう!」
言うが早いか、暁星塵は薛洋の手をとり窓際に向かう。薛洋はぐいぐい引っ張られながら苦笑した。
(相変わらずマイペースなやつ……)
窓を開けるとひんやりとした外気が流れ込んでくる。ちょうど夜空に大きな花が咲いたところだった。冬の澄んだ空気の中、カラフルな光の粒が漆黒の空に散っていく。
暁星塵はわぁ、と声を上げ、目を輝かせながら夜空を見上げている。吹き込む風に、艶やかな髪がふわりと揺れた。
「綺麗だね」
「……そうだな」
気の利く男なら、ここで“あんたの方が綺麗だ”とか何とか気障ったらしい言葉をかけるのかもしれない。だがあいにく薛洋はそんなキャラではなかった。それに、さっきの答えが気になって仕方なくて、上の空だったのだ。
暁星塵は、何と答えようとしたのだろう?
花火の光に照らされた横顔を、薛洋はこっそり盗み見た。すると相手も同じタイミングでこちらを見たようで、視線がぶつかった。慌てて目を逸らそうとした時、暁星塵がきょろきょろと辺りを見回す仕草をした。
「ん……なんか聞こえない? 阿洋のスマホじゃないかな」
「あっ? 花火の音で聞こえなかった」
慌てて自分のズボンのポケットを探る。確かにスマートフォンが賑やかに鳴っていた。画面には見知った仲間の名前と、賭け麻雀の日程調整のメッセージが表示されている。年が明けて落ち着いたら夜通しでやろう、ずっと前からそう約束していたのだ。
薛洋は片手で素早く文字を打ち込んだ。
――もう行かない。
そして返信も確認せずに電源を切ってしまった。そのままポケットにしまい、何事もなかったかのように再び空を仰いだ。
花火はクライマックスを迎えようとしているのか、次々と豪快な音を立てて花開く。夜の闇の中、赤や黄色、緑といった色鮮やかな光が次々と明滅した。まるで夢のように美しい光景に、薛洋はしばし言葉を失う。
「来年もこうやって一緒に花火を見られたらいいね」
「俺と?」
「他に誰がいるの」
「……ははっ」
思わず笑いが込み上げた。
暁星塵の手が薛洋の手を再びぎゅっと握る。薛洋はその手を強く握り返した。
さっきの答えが返ってくることはなかったが、それでよかった。
薛洋は日付が変わり新しい年を迎えたことも気づかず、色とりどりの光を浴びる暁星塵の横顔を目に焼き付けるように見つめていた。