怪我

「へぇ~、こりゃすごいな」  静まり返った店内に驚嘆の声が響いた。  青年は手の中の飴をひとつ口に放り込むと、店の中に並べられた商品を興味深げに見回す。  土とも草ともつかぬ独特の臭いが立ち込める店内は、怪しげな雰囲気を漂わせていた。壁一面の棚には所狭しと薬草や生薬が並んでいる。乾燥させた植物の根、葉や茎を束ねたもの、鈍く光る鉱物、大きな動物の角、亀の甲羅……あらゆるものが雑多に並んでいる様は、一見して混沌としていた。 「店主。五倍子ごばいしってやつをくれ。金はこれで足りるんだろ?」  一番奥まったところに座している男の前まで進むと、彼――薛洋は人懐こい笑みを浮かべた。台の上にちゃりんと銭を投げ、口の中でころころと飴玉を転がしながら尋ねる。  店主は予期せぬ来訪者に片方の眉を上げた。  それもそのはず。  ここを訪れる客といえば、ほとんどが医者や薬師といった専門知識を持った人間か、あるいはその道に通じている仙師のいずれかだ。ふてぶてしい態度で店主の目の前に立つ男は、どう見てもそのどれにも当てはまらない。  普段の客とはまったく毛色の違う男の登場に、店主は面食らった。しかしそこは商売人である。すぐさま営業用の笑顔を浮かべると、慇懃な態度で拱手をしてみせた。 「……ええ、ございます。少々お待ちを」  店主は立ち上がり棚の奥にある引き出しを開けた。中には様々な色の紙の小袋がぎっしりと並んでいる。その中からひとつを取り出し、薛洋に向かって恭しく差し出す。  小袋の中を改めた薛洋は、満足げに頷いた。そのままくるりと踵を返し、袖の中からもうひとつ飴を取り出して口に入れる。今にも鼻歌でも歌い出しそうに見えるほどの上機嫌ぶりだった。  がり、という硬い音が静かな店内に響いたところで、店主は呼び止めるように声をかけた。 「お客様、差し出がましいことを申しあげるようですが」 「ん?」 「歯痛であれば、飴や菓子の類はお控えになったほうがよろしいかと」  振り返った薛洋は一瞬きょとんとした顔を浮かべた。だがすぐに破顔し、からからと笑った。 「歯痛? 俺は歯痛なんかじゃないぜ」 「は、ではその五倍子は……」  薛洋は店主の問に答えることなく、小首をかしげて見せる。  歯痛でないとすると、はて。店主は思案顔で顎に手をやった。  五倍子といえば、歯痛の薬に用いられるのが一般的な生薬だ。もちろんそれ以外の使い途がないわけではないのだが、それは、ごく限られた用途でしかない。  ほんの一瞬怪訝な表情を見せた店主は、やがてすべてを把握したとでも言うように「ああ、はいはい、なるほど」と小さく呟く。その顔にはニンマリと卑しい笑みが浮かんでいた。 「さてはお客さん、入れ込んでいる妓女でもいらっしゃるんで?」 「……はぁ? 女?」  薛洋は先程までの上機嫌とは打って変わって、眉根を寄せてあからさまに不機嫌な声で返す。  だが、そんな薛洋の反応などどこ吹く風とばかりに、店主はにこやかに話を続けた。 「お若いのになかなか玄人好みでいらっしゃる。身籠る心配もないですし、あっちより締まりがいいっていいますからねぇ」  下卑た物言いに、薛洋はさらに眉間の皺を深めた。  しかし店主はそんなことにはお構いなしで、まるで立て板に水の如くぺらぺらと喋り続ける。 「ですがやり過ぎは腫れたり切れたりしますし、よくありません。ほどほどにしておきませんと、軟膏じゃ間に合わない大怪我になることもありますよ。あ、これは先日、五倍子を調達に来た妓楼の下男から聞いた話なんですがね……」  下世話なおしゃべりはとどまる所を知らなかった。  薛洋はしばらく、店主の話などまったく理解できないという顔をしていた。けれどもようやく彼が何を言わんとしているかに思い至ったようで、みるみるうちに顔色を変えた。  彼はこの時初めて知ったのだ。  五倍子が、妓女が尻でまぐわった後、そこの止血や鎮静に用いる軟膏の原料として使われるものだという事を。 「店主、いい加減黙らねえとその舌を切り落とすぞ」  怒鳴り声とともに、懐から取り出したあいくちを素早く構える。鋭い切っ先はぴたりと店主の口元に突きつけられていた。  その殺気に当てられて、それまで饒舌だった店主もさすがに口を噤む。あたふたと両手を挙げて降参の意を示した。 「すみません、決してお客様のご趣味に口を出すつもりはないのです。ただ、お相手様の尻、いやお怪我を案じただけのことでございまして……」 「う、うるせぇ! 黙れと言って――」  動揺のあまり袋を握りしめる手元が狂ったのか、中から乾燥した黄土色の塊がふたつみっつ、ころりころりと床へと転がり落ちていった。薛洋は慌てて拾い上げようと身を屈める。  その時、店主の目は薛洋の首元に釘付けになった。  視線の先にあったものは、はらはらと舞い散る真っ赤な花びらを思わせる、真新しく生々しい痕だった。  薛洋自身からは見えにくい位置であるために、当の本人は皮下に刻まれたうっ血に気づいてなどいないようだ。  鎖骨の下あたりから首の付け根周辺にはっきりと残されているそれに、店主はくすりと笑みを零す。  なかなか情熱的なことをする女らしい。この若者は、些か粗野な振る舞いが目立つものの、上背もあるし顔立ちも実に整っている。きっと、馴染みの妓女からたいそう惚れられているのだろう……。 「桃仁と牡丹皮もお持ちになりますか? 肌のうっ血に効く薬になります」 「……は、あぁっ!? あいつ、くそっ」  店主の視線の行き先に気づいた薛洋は、上ずった声を上げながら衣の前を搔き合わせた。    妓楼通いをしているくせに、ずいぶんと初心なことだ。  思わず吹き出しそうになるのを、店主は咳払いをして誤魔化した。  ◆ 「道長、あんたな~! なんてものを俺に買わせるんだよ!?」  義荘に戻って早々、薛洋は暁星塵の姿を見つけるなり大声で詰め寄った。  突然の詰責に驚いたらしい暁星塵は、びくりと肩を震わせて立ち止まった。 「お帰りなさい。どうしたんです、一体」 「あんたがすぐ買って来いって言ったこれ、五倍子! これのおかげで俺は赤っ恥をかいたんだぞ!!」  駄賃代わりの飴につられて使い走りを引き受けたばっかりに、俺は……。ぶつぶつと恨み言を吐きながら、先ほど買ったばかりの商品の入った包みを手渡す。  顔を真っ赤にして憤る薛洋とは対照的に、暁星塵は困惑顔だ。  彼がなぜ怒っているのか分からないらしく、しきりに首を傾げている。  その態度を見て、薛洋はますます苛立ちを募らせた。 「五倍子ってのは、その……し、尻の怪我に……。いやそもそも、慌てて薬を作るくらいなら、もっと手加減てものをだな……」  言いながらも気恥ずかしさが込み上げてきて、語尾は蚊の鳴くような小さな声になってしまった。  暁星塵は聞き取れなかったようで、ますます不思議そうな顔をするばかりだ。 「道長ぉ~、お薬まだ……?」  その時暁星塵の背後から、今にも泣き出しそうな弱々しい声が聞こえてきた。  しょんぼりとした顔の阿箐が立っている。彼女は片手でほっぺたを押さえながら、もう我慢できないといった様子で暁星塵の衣に縋りついた。手の隙間から見える頬は腫れ上がり、大層痛々しい。 「安心なさい。彼が急いで町まで行って、材料を買ってきてくれたのです」 「うぅ……」 「さぁ、歯痛によく効く薬をすぐに調合しますから、もう少しの辛抱ですよ」 「わかった……」  優しく諭すような声音に、阿箐の顔がくしゃりと歪む。  そのやり取りを見ていた薛洋は、ひくりと頬を引き攣らせた。 「……歯痛?」 「ええ、歯痛。飴を夜眠る前に食べていたのがいけなかったようです。あなたも気をつけてくださいね」  微笑む暁星塵の顔は菩薩のごとく清らかだ。  一方の薛洋はというと。  頬をみるみる紅潮させ、苦虫を噛み潰したような顔で小さく唸った。