日暮れ時。オレンジの光が部屋に差し込んでいる。壁際に置かれた布張りのソファの上で、だらりと胡座をかいて座る男が一人。薛洋は退屈そうにスマートフォンを弄り、時間を潰していた。
「お」
スマートフォンが振動し、画面に通知が表示される。メッセージの送り主の名前を見て、薛洋の表情が一気に明るくなった。
『今、アパートの裏の交差点。すぐ帰るよ』
そのメッセージを読んだ薛洋はすぐに立ち上がり、玄関に向かう。
そしていそいそと、頭上に乗った黒い猫耳カチューシャの角度を調整し始めた。揃いのしっぽもしっかり装着されているか確認するため、尻に手を伸ばしたところでインターホンが鳴った。
勢いよく扉を開け、ドアの外に立っていた暁星塵に飛びつくように抱きついた。
「Trick or Treat! お菓子くれなきゃいたずらするぜ~~!!」
そう、今日は10月31日。ハロウィンの夜がやって来たのだ。仮装した子供が近所を駆け回り、大人達も浮かれて仮装を楽しむ夜だ。
いかにも脳みそ空っぽな奴らが、いい年して恥ずかしげもなくコスプレで騒ぐなんて、一体何が楽しいんだか。
例年はそう馬鹿にして鼻で笑っていた薛洋だが、今年は違う。
彼が働いている食堂ではここ数日の間、ハロウィン限定メニューが提供されていた。それはカボチャを使ったスイーツだったり、パンプキンパイやスープといったものだった。そのため、店の従業員もそれにあわせて全員何かしらの仮装をしていたのだ。
八重歯が猫っぽいから、という理由だけで与えられた黒猫のコスチュームは、いかんせん安っぽさが拭えないもで薛洋は不満たらたらだった。だが意外にも大きな反響を呼び、その衣装のまま接客をした日には彼を目当てにした女性の客足が途絶えない程だった。そんな経緯もあり、本日の彼は上機嫌なのである。
「どうだ、なかなか可愛いだろ? この猫耳としっぽ、店でもすごく……」
抱きついたままの姿勢で喋り続けていた薛洋は、ふと顔を上げた瞬間に固まった。
視線の先にある恋人の顔はこの世のものとは思えない程に青白く、目は赤くギラギラと光り、唇は真紅に染まって赤黒い血の筋を垂らしていたからだ。まるで本物の吸血鬼のように――。
驚いて声も出ない薛洋を尻目に、暁星塵はにこりと笑った。
「ただいま。それ、とっても似合ってる」
「え、いや、うん……っていうか、なんだその格好!?」
ようやく我に返った薛洋は、改めて彼の姿を眺めた。黒を基調とした中世貴族風の服に、赤い裏地のついたマントを羽織っている。黒く艶やかな長い髪は後ろに一つにまとめられていて、口にはリアルな付け歯を入れているらしく、鋭い牙が覗いていた。その姿はまさしく、映画で見た吸血鬼そのものだった。
普段の控えめな服装とは打って変わって、どこか妖しく色気のある姿に思わず生唾を飲み込んだ。威厳さえ感じさせる雰囲気に圧倒されて何も言えずにいると、暁星塵は不思議そうに首を傾げた。
その仕草はいつもと変わらないものなので、余計に頭が混乱する。
「何って、大学でハロウィンのイベントがあったんだよ。言わなかったっけ? せっかくだからそのまま帰ってきたんだ」
言われてみると確かに数日前、そんな話をしていたかもしれない。確かボランティアサークルでも何かやるとかやらないとか言ってた気がするけど、まさかこんな本格的な仮装をするとは思ってもみなかった。
急に自分のチープな猫耳姿が恥ずかしくなった薛洋は、慌てて頭に乗せたカチューシャを取り外そうとした。
しかしそれを暁星塵の手が阻む。
「あっ、取らないで」
「なんでだよ?」
「……すごく可愛いから。せっかくのハロウィンだし、ね?」
いつもと同じ口調のはずなのに、吸血鬼の衣装のせいなのか妙な艶めかしさと迫力が感じられ、薛洋は何も言い返せなくなる。ただ黙ってこくり、と頷くしかなかった。
そんな薛洋の反応に満足したのか、暁星塵はいかにも嬉しそうな様子で持っていた紙袋を差し出した。
「Happy Halloween、はいどうぞ。楽しいハロウィンを」
差し出された紙袋を受け取ると、ずっしりとした重みを感じた。中には色とりどりの包装紙に包まれた箱や袋がいくつも入っていた。その中身は言わずとも知れている。チョコレートやクッキー、そして大好物のキャンディなどのお菓子だ。どれもこれも見るからに美味しそうである。
「わお! こんなにたくさん!? リビングで一緒に食おうぜ」
「待って」
「まだなんかあんのかよ~~?」
薛洋がマントの端っこを引っ張って部屋の中へと促すが、暁星塵は動かないまま悪戯っぽく微笑んで言った。
「Trick or Treat! 私にもお菓子をくれる?」
「……ッ!」
まずい。今日はコスプレすれば恋人からお菓子がもらえる日、という程度の認識しかなかったので、当然何の用意もしているわけがない。
まさかあの真面目が服を着て歩いているような男が、コスプレのまま帰宅してお菓子を強請ってくるなんて、予想できるはずもなかった。
薛洋は必死で頭を働かせるが、焦りのせいで良い案が全く浮かばない。慌ててポケットの中を探ってみても、出てきたのは小銭やくしゃくしゃのレシートだけだった。
「悪い! 俺なんにも準備してない……」
素直に白状すると、暁星塵は大して気にする様子も無くあははと笑い声を上げた。
「だろうと思った。でも別にいいよ、いたずらするだけだから」
「い、いたずら」
「“お菓子をくれなきゃ、いたずらするよ”」
いたずら、という言葉に思わずドキリとする。
暁星塵の赤い目がすぅっと細められ、唇が三日月型に吊り上がるのを見て、心臓が大きく脈打った。
(いや、別に変な意味じゃないんだろうけど。多分)
しかし、あまりにも完成度が高い吸血鬼のコスプレが良くない。普段とのギャップも相まって何やら妙に色っぽく、扇情的に見えるのだ。
(俺、そういうコスプレ趣味は無いんだけど、これはちょっと……クるものがあるな)
そんな事を考えながら、薛洋はゴクリと唾を飲んだ。
そうこうしているうちに、暁星塵は一歩ずつゆっくりと薛洋の方へと近づいてきた。その動きに合わせて、薛洋もじりじりと後退する。
「ふふふ、逃げても無駄だよ」
「ちょっと待て! こんなところで、おいっ」
だがすぐに背中が壁に当たってしまった。もう逃げられない。そう思った瞬間。
暁星塵の両手が伸びてきて、脇の下や脇腹をくすぐられた。
「こちょこちょ~!」
「えっ!? あはははっ、やめろバカ!! うひゃははは!!」
あまりのくすぐったさに、薛洋は身を捩って笑い転げる。暁星塵も楽しそうに笑いながらくすぐり続けている。
しばらく暴れていたが、やっと解放される頃にはすっかり息が上がっていた。
涙目になりながらもキッと睨みつけると、暁星塵はごめんごめんと言って手をひらひらさせた。
反省の色など微塵も見えないその様子に、薛洋はため息をついた。
「なんなんだよ、くすぐるなんて反則だろ……子供じゃあるまいし」
それに、同棲を始めたばかりの恋人同士がする行為にしては、あまりにも幼稚すぎるいたずらだ。
(期待した自分が馬鹿みたいじゃないか。もうちょっとこう、なんかあるだろ!?)
心の中で毒づきながら、床に落ちた紙袋から飛び出て派手に散らばったお菓子をひとつひとつ拾いあげていく。すると暁星塵はまたおかしそうに笑った。
「アハハ、ずいぶん残念そうだね」
からかうように言われて、カッと顔が熱くなるのを感じた。こいつは本当の吸血鬼で、読心術でも使えるんじゃないか……なんて馬鹿げた考えが浮かんでしまうほど、図星だった。
咄嗟に否定しようにも上手い言葉が思いつかず口籠ってしまう。
暁星塵の手が、キャンディを握った手の上にそっと重ねられた。その手の感触に驚いて顔を上げると、いつの間にかすぐ近くに彼の顔があった。
「大人のいたずらの方が良かったかな」
真っ赤な唇が蠱惑的な弧を描き、チラリと覗く白い牙に目が釘付けになる。まるで催眠術にでもかかったかのように体が動かなくなり、金縛りにあったみたいに瞬きすらできない。
暁星塵の口が開き、まるで本物の吸血鬼が獲物に噛みつくかのように首すじに狙いを定めている。熱い吐息が肌に触れ、ぞくぞくとした感覚が背筋を駆け上がった。
大きな音を立てながら、足元のフローリングに鮮やかな紫とオレンジ色が散らばる。
視界の隅に見えるそれが自分の手の中からこぼれ落ちたキャンディだと気づいた時には、薛洋は暁星塵の“いたずら”に為すすべもなく翻弄されていた。