散歩

 風が吹くたびに赤く黄色く染まった葉が散り、地に落ちたそれがまた風に吹かれて舞う。  赤や黄色の色彩に包まれた世界で、木漏れ日の中をゆっくりと歩む二人分の足音。その片方は、一歩を踏み出すごとに一拍ほど遅れて引きずるように地面を擦っていた。  もう片方の足音は、規則正しい一定の間隔で刻まれて、時折止まっては、数歩先を行く者の様子を窺うような間を置いてから、再び前へと歩みを進める。  時たま思い出したように風が吹き、乾いた音を立てて二人の足元を落ち葉が転がった。  その音を合図にしたように、少し前を歩く者──薛洋は足を止め、くるりと後ろを振り返った。  後ろに続いていた者は、突然立ち止まった彼に合わせて足を止め、不思議そうに首を傾げた。 「なあ道長。もうそろそろ帰ろうぜ」 「おや、まだ一里ほども歩いていませんが……退屈だったでしょうか」  薛洋の言葉に、暁星塵は眉尻を下げ、申し訳なさそうな声で答えた。  ◆  ある日の昼下がり、未の刻が過ぎた頃。  年中薄暗く陰気漂う義荘も珍しくカラリと晴れており、気持ちの良い陽光が庭院に降り注いでいた。  阿箐はぽかぽかとした陽気に誘われて、大きな欠伸をひとつしてから軒下に座り込み、うつらうつらと船を漕ぎ始める。  それを見ていた薛洋もつられてあくびが出そうになるのを噛み殺しながら、ぼんやりと空を眺めていた。  いつもと変わらないのどやかな午後。このまま自分も昼寝でもしてしまおうかと目を閉じたその時、そっと肩に手が添えられる感触がした。  振り返ると、すぐ目の前に暁星塵の顔があった。  彼は唇に指を当て声を出さぬよう薛洋に促すと、肩に置いた手はそのままに、もう片方の手で自身の背後を指差した。ついて来いと言いたいらしい。  薛洋は大人しく彼の後に続き、二人は高い敷居を跨いで義荘の外へ出た。 「どこへ行くんだ? 買い物か?」 「いいえ。たまには散歩もいいかと思って。脚もだいぶ良くなったと言っていたでしょう? 気分転換ですよ」  暁星塵の声はどこか弾んでおり、心なしかいつもより足取りも軽いように見える。  確かに最近はずっと義荘に籠りきりで、すっかり体が鈍ってしまったように感じていた。だから、こうして外に出て体を動かせるのは正直ありがたかった。  だが、薛洋はこれまでの人生において、“散歩”などという行為とは最も縁遠い生活を送ってきた人間であったので、どのように振る舞えばいいのか皆目見当がつかなかったのだ。  ◆ 「退屈っていうかさ……俺、散歩なんてしたことないから、どうすりゃいいのかわかんねぇ」 「そう、でしたか。すみません、強引に連れ出してしまって……」  薛洋の言葉を受けて、暁星塵の声が沈む。その様子に薛洋は慌てて首を振った。 「ハハ、あんたが謝るようなことじゃない。ただ浮浪児だった頃は毎日生きるのに必死で、こんな風にのんびり歩くことなんてなかったってだけさ」  幼い頃は、日々の糧を得るために当て所もなく街を歩き彷徨うことはあっても、散歩という行為を自ら進んで行う機会などなかった。それは蘭陵金氏の客卿として暮らしていた頃にも同じことが言えた。誰かと肩を並べて歩く時は、大抵の場合目的があっての事であり、ただ漫然と時間を浪費するような行いではなかったのだ。 「なるほど。では今日があなたの初めての散歩というわけですね」 「そういうことになるかな。まあとにかく、折角だしあとちょっとだけなら付き合ってやるけど、ちびにわぁわぁ言われる前に帰ろうぜ」  それにしても、まさか宿敵と呑気に散歩をすることになるなんて、少し前の自分が知ったらどう思うだろうかと考えながら、薛洋は隣を歩く男の表情をちらりと窺い見た。相変わらず目元を覆う包帯のせいで表情までは読み取れないものの、薄い色の唇はいつもと同じように弧を描き、静かに微笑んでいるように見える。こいつも騙されているとも知らずに、随分とおめでたい奴だなと内心で嘲笑いながら、薛洋は視線を前へ戻した。  軽く伸びをして頭の後ろで両手を組み歩き出したその時、足元の小石に躓いてぐらりと体勢を崩した。危うく転びそうになったところを、咄嗟に腕を掴まれて支えられる。 「おっと……大丈夫ですか。少し無理をさせてしまったようですね」 「……っ、ああ……悪ぃ……大丈夫、躓いただけだから」  盲だというのに、この男はよく他人の動向に気づくものだと感心する。暁星塵の腕に掴まりながら体制を立て直し、脚を庇うようにゆっくりと歩を進める。  そんな薛洋の様子をしばらく窺っていた暁星塵だったが、ふと何かを思いついたように口を開いた。 「君、手を」  暁星塵は、薛洋の前に自身の左手を差し出した。  その手は白魚のように白く滑らかで、指にはささくれのひとつもない。まるで作り物のような美しい手に面食らってきょとんとしていると、暁星塵は焦れたようにもう一度促してきた。 「遠慮しないで。師の元で修行をしていた頃、よくこうやって幼い弟弟子の手を取って山を歩いたものです」 「……俺はガキじゃねぇぞ」  薛洋はそう言いながらも、差し出された手に自らの右手を重ねると、きゅっと握り返されてそのまま手を引かれた。まるで小さな子供に戻ったかのような扱いが少し不服ではあったが、不思議と悪い気はしなかった。繋いだ手は自分より体温が低くひんやりとしているものの、じんわりと暖かい温もりが伝わってくるようでもあった。  手を繋ぎ並んで歩きながら、暁星塵は穏やかな声で話し始めた。 「きっと今時分はこの辺りも、空は澄み渡り木の葉は鮮やかに色づいて、たいそう美しい眺めなのでしょうね」  暁星塵は繋いでいない方の手で頭上を覆う枝葉をそっと撫でた。カサリと乾いた音がして、指先にはらりと数枚の葉が落ちる。薛洋もまた頭上に視線を移し、赤く黄色く染まった葉がついた枝に手を伸ばした。 「この木は紅葉か。確かに綺麗だけどな」  掴んだ葉をくるくると回しながら目を細めた。 「そんなふうに風景を眺めて季節を感じたり、親しい者と他愛も無い会話を楽しむのが散歩の醍醐味なのですよ」 「へぇ……そんなもんかな。でもやっぱり、俺にはそういう風雅なことはさっぱりわからねぇよ」  薛洋は素っ気ない返事を返した。さも興味など無いといった風に。  けれども言葉とは裏腹に、その表情は穏やかに凪いですらいる。  秋晴れの下、ゆったりとした歩調で進む二人分の足音。風に吹かれて木々を揺らす音と鳥の声だけが聞こえる静かな空間で、二人はぽつりぽつりと言葉を交わしながら、手を繋いだままゆっくりとした足取りで歩みを進めた。  ◆ 「あれ? 道長、これどうしたの?」  夕餉の支度をする暁星塵の後ろで、阿箐は卓の上に置かれたそれを見つけて首を傾げた。  暁星塵は作業の手を止めて振り返り、阿箐が手にしたものに手を伸ばす。手探りで触れながら確認すると、どうやらそれは今朝まではなかったはずのものだった。 「何でしょう……これは……瓶と、枝……?」 「紅葉の枝みたい。花瓶に挿してあるよ。道長が生けたんじゃないの?」 「いえ、私は何も……あ!」  そこまで言って、何かに気づいた様子で声を上げた暁星塵の顔を、阿箐は不思議そうに見上げた。  暁星塵はくすくすと小さく笑い、なにやらずいぶんと楽しげだ。 「え~、何なに? なんで笑ってるの?」 「ふふふ、なんでもありません。さあ阿箐、そろそろ彼を呼んできて」  暁星塵は忍び笑いを漏らしながら、再び厨房に向き直った。 「ちょっと! ねぇってば~~!」  その反応の意味が分からず、阿箐は頬を膨らませながら不満げな声をあげた。