仲直り

 そろそろ山際が白み始める頃だというのに、義城の街へと続く小径は夜の静粛さを残したままだ。夜露に濡れた草木の香りが鼻孔をくすぐる。頬を撫でる風は水気を含んでひんやりとしていて、すっかり秋の風だ。その冷たさに、思わず身震いしてしまう。おそらく吐く息は白いに違いない。  義荘に残して来た彼は、寝床で一人凍えてはいないだろうか。  思い人を案じながら、私は足早に城門をくぐった。  遡ること数刻。暮れ方、私と彼はちょっとした喧嘩をした。発端は、彼に与えた飴よりも阿箐の飴の方が大きいだとか重いだとか、そんな些細なことだった。口論になった二人をなだめたつもりが、逆に彼の怒りの火に油を注いでしまったらしい。  彼はずいぶん腹を立て、拗ねて、不貞腐れていた。いつもはあんなに帯同をせがむくせに、夜狩に連れ出そうとしても「道長一人でどこでも行っちまえ!」と、冷ややかな言葉を投げる始末だ。仕方なく私は一人きりででかけ、今に至る。  近頃は共寝も日常になり、互いに触れ合うことが当たり前になっていた。けれどもあの様子では、きっと当分私の寝台へはやって来ないだろう。  寝所の扉をそっと開けると、足音を立てぬように気を配りながら、彼の寝床へ向かう。だが、そこに人の気配はない。  彼は一体どこへ? まさか怒って出て行ってしまったのだろうか?  不安に駆られながら布団に触れてみても、敷き布は冷えきっている。彼がここにいた痕跡は見当たらない。 (いや、そんなはずは……)  踵を返し、今度は私自身の寝台へと急ぐ。まさかと思いつつそろそろと手探りで寝床に触れると、出かける前に整えたはずの布団がこんもりと盛り上がっている。掌でその盛り上がりを撫でると、かすかに温かみを感じた。それは、壁のすぐ間際で丸まって眠る彼の背中だった。  昨夜の彼は、まるでいじけた子供だった。なのにいつも通り私の寝台で、私が眠る場所を空けて、私の帰りを待ってくれていたのだ。  春陽のように淡く温かなものがじわじわとこみ上げてきて、つい先程まで心の中に渦巻いていた寒風などどこかへ吹き飛んでしまう。  布団に潜り込み、背中から覆い被さるように抱きしめると、彼の肩がぴくんと跳ねた。 「……ただ今戻りました。機嫌は直ったでしょうか?」  返事はない。肩先に触れ、首筋を撫で、髪を指で漉く。しばらくそうしていると、彼の頭がもぞもぞと動き、不満気な声が返ってきた。 「あのちびの肩ばかり持ちやがって。そんな簡単に腹の虫が治まるわけねぇだろ」  それでも、私の手を押し退けたり逃げたりしないあたり、本気で怒っているわけではなさそうだ。  自然と、噛み殺すことのできない笑みが溢れてしまう。両腕を彼の身体に回して、うなじに口づけた。 「でもあなたは、きちんと私が寝る場所を空けて待っていてくれた」 「寝返りを打ったらたまたま半分空いただけだ。勘違いすんな……」  彼は私の胸に体重を預けてきたものの、その物言いには相変わらず冷たく鋭い棘があった。  だが「勘違いするな」と言われても、そもそも彼が今横になっているのは私の寝台の上なのだ。つまり私を待っていたということに他ならないのではないか。言行不一致とはまさにこのことだ。彼の心中は私にとって非常に難解であり、どうにも考えが及ばない。  さてどうしたものかと思案するが、良い案は何も浮かばなかった。こんな時、気の利いた言葉の一つや二つすら出てこない自分の未熟さが恨めしい。  熟慮の末、ここはそっとしておくべきだろうという結論に達した。何も無理に話をしなくても良い。時間はいくらでもあるのだから。  余計なことを言ってまた怒らせてしまってはいけないと、慎重に慎重を重ねて言葉を選んだ。 「失礼しました。では私は、今日は向こうで阿箐と休むことにしましょう」  腕の力を緩めて起き上がろうとした時、途端に彼が体を強張らせた。慌てたように身動ぎ、くるりと身体を反転させてこちらを向くと、衣の端を掴んで縋りついてくるではないか。 「あっ、待て。ここにいろよ。ちびの所へは行かなくていい!」 「そんな。あなたの心をこれ以上煩わせたくはないですし」  私なりに彼に気を遣ったつもりなのだが、どうやら逆効果だったらしい。彼はますますムキになって言い返してきたのだ。 「うるせぇ! 行くなと言ったら行くな」 「しかし、一人の方が気が楽なのでは……?」 「一人だと、その……さ、寒いんだよ! 俺が風邪でもひいたら道長のせいだからな!!」  それきり彼は、口を閉ざしてしまった。しかしそれでもなお、彼の手は私の衣の裾をしっかりと掴んでいる。  その焦りようは、どこか不自然で、必死さが滲み出ていて……ああそうか、なるほど、と思い至った。  今、彼は苛立っているのではない。ひどく恐れ、狼狽しているのだ。そしてそれを私に悟られまいと虚勢を張っているのではないか。  普段は朗らかな性格をしている。よく笑い、よく喋るし、愛嬌がある青年だ。だが一方で、心根には脆く繊細な部分があるように思う。おそらく私しか知らないことで、彼自身ですら気づいていないかもしれない。しばしば見せる彼の虚勢は、その脆さを覆い隠すためのものなのだ。そう理解したのはほんの最近のことで、それまではただ、少しばかり感情の起伏が激しいだけと思っていた。 (彼が恐れているものは、きっと……)  大丈夫、どこにも行きませんよ。  そう言いかけた時には、彼は一瞬のうちに私の口を手で押さえつけ、怒声とも悲鳴ともとれないような叫びをあげていた。 「いいから黙って俺の湯婆子湯たんぽになってろ! そしたら許してやるって言ってるんだ」 「んむ゛っ」  掌の下でくぐもった声を上げながら、私は笑い出しそうになるのを懸命に堪えていた。  これは、素直ではない彼なりの精一杯の甘え方なのだ。なんとも可愛らしく、愛おしい。こんな姿を垣間見ることができるのなら、たまには喧嘩も悪くないとさえ思う。もちろんそれを口にしようものなら、きっとまた臍を曲げてしまうのだろうけれど……。  彼があまりに必死なので、ここで笑ってしまっては気の毒というものだ。私はなんとか表情を引き締め、大きく何度か首を縦に振る。すると彼はようやく安堵したようで、口から手を離した。 「……仲直り、してくれますか?」 「湯婆子湯たんぽは喋らない」  ぶっきらぼうな口調は相変わらずだったが、その声音は先程より幾分柔らかくなっている。どうやら仲直りを受け入れてくれたようだ。  こうして共に暮らすようになってだいぶ経つというのに、未だ彼からは学ぶことが多い。つくづく興味深い青年だ。  私はほっと胸を撫で下ろし、改めて彼の背中を抱き寄せた。彼もそれに応えるように、おずおずと身を寄せてくる。触れ合う肌から互いの体温を感じ取りながら、しばしの沈黙に浸った。  静謐の中で耳を澄ませば、葉擦れの音に混じって、遠く鳥の鳴き声が聞こえる。このところ朝晩はずいぶん冷え込むようになったが、やがて日が昇り始めればどんどん気温も上がり、暖かな陽気に包まれるに違いない。  それまでは、まだまだ時間がある。湯婆子湯たんぽ湯婆子湯たんぽらしく、黙って彼を温めることに専念しよう。  彼の背中に回した腕に力を込め、冷たい髪に顔を埋めた。