喧嘩にもならない

 夜の帳に包まれた住宅街の一角にある小さな公園で、俺は一人ベンチに座ってホットココアを飲みながらスマホを弄っていた。時折り吹く風が肌寒くて上着の前を閉めると、途端に体の芯から冷えてくる気がする。昼間はまだ暖かい日もあるが、夜は急に気温が落ちるようになった。もうすぐ9月も終わりだ。そろそろ衣替えしないとなぁと思いながら、再び手の中の画面に視線を戻す。  相変わらずメッセージアプリには既読すら付かないし、SNSも更新されていない。早く仕事が片付いたから一緒に食べようと持ち帰ったまかないの食事は、ビニール袋の中でとっくに冷めてしまった。 (あいつ……まじで何なんだよ……)  この一週間程の間、暁星塵からの連絡は途切れがちだった。以前は毎日欠かさずあった返信がないどころか、既読さえなかなか付かなかった事もある。大学の新学期がスタートするこの時期は何かと慌ただしいのだろう。ボランティアサークルの副部長を任されたと言っていたし、忙しいのなら仕方ないとは思いつつ、不安な気持ちは拭いきれない。  手の中の鍵を見る。これは以前2人で旅行に行った時に買ったお揃いのキーホルダーが付いている合鍵だ。いつでも来ていいと言われて渡された物だが、最近は使った事はない。何となく使う機会を逃していたのだが、今日こそ使おうと思い立った。もし家にいなくても、これで中に入って待つ事が出来る。 (別に会いたい訳じゃないけど! ただ、付き合ってるんだから、たまには一緒に飯を食ったっていいだろ!?)  誰に言うでもなく心の中で言い訳をしながら、ベンチから立ち上がった。  それにしてもこんなに長い期間、まったく会えないなんて初めてかもしれない。最後に会ったのはもう3週間以上前だ。  今までだってお互いバイトや講義で忙しくて、会えない日が続く事は度々あった。それでも1日1回は必ず何かしらのやり取りがあったのだ。それが今はない。いくら何でもおかしい。 (まさか浮気してるなんて事は……いや、それはないか)  自分で考えておきながら即座に否定する。  だってあいつはそんな奴じゃない。俺の知っている暁星塵という男は、見た目は穏やかで優しげなのに中身は頑固で強情で、ひとたび決めたら絶対に曲げないような強い意志を持っている。それに何より誠実だ。少なくとも恋人以外の人間と関係を持つような不義理はしない筈だ。多分。きっと。おそらく。  そうは思うのだが、一度頭を過った考えはなかなか消えなかった。  もしかしたら他に好きな人が出来たのかも。俺と別れたいと思ってるのかも。  いてもたってもいられなくて、気がつけばあいつのアパートの前に来ていた。  階段を上がって部屋の前まで来ると、ドアの前で深呼吸をしてからチャイムを押す。しかし部屋の中からは物音ひとつしない。ドアノブに手を掛けてみるが案の定鍵がかかっている。もう一回押してみても同じだった。やはり留守のようだ。  合鍵を使って開いたドアの向こうには、見慣れた靴が綺麗に揃えられていた。部屋に上がると、やはりここも真っ暗で人気はない。俺はリビングの明かりを付け、持っていたビニール袋をテーブルの上に置いた。  重たい体をソファに沈めると、ここに2人でいる時の光景が鮮やかに甦る。ここには何度も来た事があるけれど、いつも隣には暁星塵がいた。2人で過ごす時間は楽しくて幸せで、まるで夢のようだった。なのに、今俺の心の中にはぽっかりと穴が空いたようだ。  ふと思い立って通話ボタンを押してみるが、1コール、2コール……10コールしても出ない。諦めて終話ボタンを押そうとした時、ようやく繋がった音がした。 『はい』  聞き慣れた声が耳に届く。久しぶりに聞く声だ。その事に安堵しながら、同時に苛立ちを覚える。 「おい! 何で連絡よこさないんだよ? アパートにもいないし。こんな時間にどこにいるんだ?」  矢継ぎ早に尋ねるが、電話の向こうは騒がしすぎて聞き取れないらしい。しばらくして、ようやく返事が返って来た。 『すまない。今は立て込んでいて手が離せないんだ。急ぎならかけ直すけど、用件は何だい?』  苛々した気分のまま思わず声を荒らげてしまう。 「何だよそれ。俺に言えない事なのか? お前最近おかしいぞ! 俺の事避けてんのか!?」  突然電話の向こうはざわざわとした雑音しか聞こえなくなった。しばらくするとまた声が聞こえてきたので耳を澄ます。どうやら人の出入りがあるらしく、時折聞こえる会話の内容から察するにどこかの店の中にいるようだ。  背後で突然賑やかな歓声が上がったかと思うと、次いで聞き覚えのない低い男の声が直ぐ側で響いた。 『星塵、誰からだ? 後にしろ』  その声に一気に頭に血が上るのを感じた。  誰だ今の? 馴れ馴れしく呼び捨てってどういう事だよ!  怒りのままにスマホを握る手に力が入る。スマホがミシミシと音を立てて軋んだがそんな事はどうでも良かった。このまま握り潰してやろうかとも思ったその時、暁星塵の慌てた声が聞こえてきた。 『サークルの新歓が長引いてしまって……。君、今アパートにいるの?』 「そうだよ。いつでも来て良いって鍵をよこしたのはお前だろ」  自分でも驚くほど低い声が出た。まるで地の底から響くような声だ。  暁星塵は一瞬押し黙った後、再び口を開いた。 『ごめん。遅くなりそうだから先に寝てていいよ』  その言葉にカッとなって怒鳴ってしまう。 「はあ?! ふざけんなよ!! 俺を何だと思ってるんだよ!! 俺はお前の何だ?!」  すると暁星塵は暫く無言になった後、小さな声で言った。 『もちろん君は私の大切な人だよ。でも今日はどうしても外せなくて……。本当にすまない、埋め合わせはするから』  俺は自分の中で、何かがプツリと切れる音を聞いた気がした。  大切な人だなんて言っておいて、結局お前は他の男と過ごすんだな。そんなにそいつの方が大事なのかよ……。  そう思った瞬間、今まで抑えていた感情が爆発した。 「もういい!! もう帰って来んなバーーーーカ!」 『でも、ええと、そこは私の家なんだけど……』  的確な指摘が聞こえてきて余計に腹が立つ。わかってる。人様の家に勝手に上がり込んでいるのはこっちの方だ。俺は叩きつけるように電話を切った。そしてそのまま電源も切ってしまうと、スマホをソファの上に放り投げたのだった。  ◆ 「……ただ今戻りました。機嫌は直ったでしょうか?」  寝台の端っこで丸まっている俺の背中に覆い被さりながら、暁星塵が耳元で囁いた。耳にかかる吐息がくすぐったくて身を捩る。  薄く目を開くと室内は真っ暗で、どうやらまだ夜明け前らしい。暁星塵は返り血を浴びているのか、微かに鉄の匂いがした。夜狩を終えて帰ってきたばかりなのだろう。まだ少し冷たい指先が首筋を撫で上げていく感触に、ゾクリと肌が粟立つ。 「あのちびの肩ばかり持ちやがって。そんな簡単に腹の虫が治まるわけねぇだろ」  不満気にそう言うと、背後でクスクスと笑う気配がする。何が可笑しいのか分からず振り返ろうとすると、長い腕がするりと体に巻きついた。背後から抱き竦められるような体勢になり、うなじの辺りに柔らかな髪が触れる感触がしてくすぐったい。身じろぎしようとすると更に強く締め付けられてしまった。 「でもあなたは、きちんと私が寝る場所を空けて待っていてくれた」  首筋に口づけられる感触がして、思わず体が震える。悔しいが、それだけで先程までの苛立ちは霧散してしまうのだから我ながら単純だ。 「寝返りを打ったらたまたま半分空いただけだ。勘違いすんな……」  精一杯強がってみたものの、語尾は小さく掠れてしまった。これでは図星だと言ってるようなものだ。きっとこいつには全部お見通しなんだろうと思うと忌々しい。しかしもうこうなってしまえばどうしようもない。惚れた弱みというやつだ。  俺は観念したように体の力を抜くと、背後の男にもたれかかった。  ◆ 「……阿洋ただいま。まだ怒ってる?」  ベッドの端っこで丸まっている俺の背中に覆い被さりながら、男が申し訳なさそうに呟いた。 「何度も同じこと聞くなよ……」 「え?」 「そんな簡単に腹の虫が治まるわけねぇってさっきも……いや、ん……?」  ぼんやりしていた意識が徐々に覚醒していく。何だかとても懐かしいような悲しいような夢を見ていた気がするのだが、目覚めた途端に記憶の彼方へと飛んで行ってしまった。  ああそうだ、そんなことよりも今はもっと大事なことがあった。とにかくこのモヤモヤしたものを吐き出さないと気持ちが悪い。 「遅くなってごめん」  のっそりと起き上がって振り返ると、目の前の男は少し困ったような顔付きでこちらを見つめている。その目の下にはうっすらとクマが出来ていて、ただえさえ白い肌が一層青白く見えた。心なしか顔色も悪い気がする。  そんなになるまで何をしていたんだと少し心配になるが、今はまだこの男に対する怒りの方が勝っていた。  そもそもこいつが悪いんだ。散々俺を待たせておいて呑気に帰ってきやがって……!  そう心の中で毒づきながらも、口から飛び出した言葉は自分でも呆れる程情けないものだった。 「浮気者」  たった一言だけ言ってそっぽを向く俺を見て、暁星塵は苦笑しながら頭を撫でてくる。 「あはは、あれは部長の宋子琛だよ」  まるで相手にされていないような言い方をされてムッとした。別に本気で浮気だなんて思っちゃいない。だけどこいつが他の人間を優先するなんて面白くないじゃないか。鼻の奥がツンと痛くなって涙が出そうになったけれど、ぐっと堪えて睨みつけることしか出来なかった。  俺が黙っていると、暁星塵は困ったように眉尻を下げた。 「もしかして淋しかったの?」 「なっ……!」  いきなり核心を突かれて言葉に詰まる。わざわざ合鍵まで使って部屋に上がり込んで、こうして大人しく待っていたのだからバレバレなんだろうが、改めて指摘されると気恥ずかしくていたたまれない気持ちになった。 「違う! 誰がそんなこと言った!! お前なんかいなくたって全然平気だし、だいたいお前みたいな薄情な奴、こっちから願い下げなんだよ!」  ひと息に捲し立てると、暁星塵はきょとんとした顔でこちらを見ていた。その顔を見ていると段々と腹が立ってきて、さらに畳み掛けるように言う。  本当はこんなことを言うつもりじゃなかったのに、口が勝手に動いて止まらなかった。そうこうしているうちに段々惨めな気分になってきて、最後の方は涙声になってしまったように思う。 「お前なんて大っ嫌いだ! もう二度と帰ってくるな!!」 「だからここは私の家なんだってば……」  眉を下げて微笑む男の顔を見て、何故だか急に泣きたくなった。固く引き結んだ唇が震えて上手く言葉が出ない。これ以上みっともない姿を見せたくないのに、目にはみるみる水の膜が張って視界がぼやけてきた。 「君と喧嘩したいわけじゃないんだ。お願いだから泣かないで」 「泣いてねぇし!」  咄嗟に言い返すが説得力がないのは自分が一番よくわかっている。  暁星塵は宥めるようにこちらの頭を撫でながら言葉を続けた。 「このところ学校もずっと忙しくて、なかなか君に構ってあげられなかったね……ごめんね」  謝るくらいなら最初からするなと言ってやりたいのをぐっと堪える。目の下にクマなんて作るほど、きっと本当に忙しかったんだろう。  それにこいつは“喧嘩したくない”と言うけれど、そもそも喧嘩にすらなっていない。いつだって俺が勝手に腹をたてて一方的に怒っているだけなのだ。こんなのただの癇癪だ。こいつが相手だと時々感情のコントロールがきかなくることがある。俺がそれだけ心を許してしまったということなのだろうが、自分の子供っぽさが浮き彫りになるようで嫌だった。 「君って普段はそっけないのに、たまに凄く甘えてくれるよね。そういうところすごく可愛いと思うよ」 「はあ!? 何だよそれ意味わかんねぇ! 頭おかしいんじゃないのか!?」 「ほら、そうやってすぐ怒るところも可愛い」  くすくすと笑う声が上から降ってくる。馬鹿にしているとしか思えない言葉なのに、何故か頬が熱くなってしまう自分が心底恨めしかった。 「やっぱり君って可愛いよ」 「あ~~も~~! いい加減黙れよお前!!」  喚きながら枕を投げつけると、難なく受け止められてしまう。それがまた悔しくて、ムキになってもう一度投げつけたところで、手首を掴まれてしまう。  そのままグイっと引き寄せられるとあっという間に押し倒されてしまい、身動きが取れなくなってしまった。  こいつ、相変わらず力が強すぎる……!  ジタバタともがく俺を見下ろしながら、暁星塵は楽しそうに微笑んでいる。余裕綽々な態度が憎たらしい。 「ふふふ。でも、嬉しかった」 「何がだよ!」  噛み付くように叫ぶと、暁星塵は俺の顔を覗き込んだ。 「君は、きちんと私が寝る場所を空けて待っていてくれた」 「……ッ」  ――ずっと前にもこんなやり取りをした気がする。穏やかに微笑んでこちらを見る面差しもどこか見覚えがあるような気がした。俺はその時、今日と同じように腹を立てながらも、こいつの体温が、匂いが、鼓動の音が恋しくて堪らず、ベッドの半分を空けて帰りを待っていた。なのに素直になれない俺は、帰ってきた暁星塵にわざと憎まれ口を叩いたのだ。 「寝返りを打ったらたまたま半分空いただけだ。勘違いすんな」  あれはいつのことだった? 俺はどこでこいつに会ったんだっけ? 朧げな記憶を辿ろうとしても靄がかかったように思い出せない。  考え込んでいるうちに、いつの間にか暁星塵の顔が間近まで迫っていて思わず仰け反った。鼻先が触れ合いそうな距離にある顔に驚いて目を瞠る俺に構わず、奴は俺の前髪をそっと掻き上げて額に口づけを落とした。唇が触れた箇所からじわじわと熱が広がっていくような感覚に顔が熱くなる。  目を開けると、暁星塵は妙に神妙な面持ちでこちらを見下ろしていた。まるでこれから一世一代の大勝負にでも挑むかのような真剣な眼差しだ。いつもとは違う雰囲気に俺は戸惑う。  すると奴は、コホンと咳払いをして改まった様子で言った。 「ここ、今はまだ私の家だけど」 「わかってるよ! あれは言葉のあやっていうか……いちいちうるせーな」 「いずれは君の家にもなったらいいなと思ってるんだけど、どうかな?」  一瞬何を言われたのか分からなくてフリーズする。そのうち脳味噌が言葉の意味を理解した途端、身体中の血液が沸騰したかのように熱くなった。 「ばっ……! ばかじゃねぇの!! こんな狭苦しいアパートで2人暮らしとか冗談じゃねえ!」  動揺のあまり大声で怒鳴ってしまったせいで咳き込んでしまった。そんな俺を見た暁星塵はクスクスと笑いながら背中をさすってくる。 「そう言うと思ったよ。はい、これ」  暁星塵が鞄から取り出したのは、何冊かのクリアファイルだった。どれも間取り図のようなものが描かれた書類が挟まっている。一体なんだと思いながら受け取って中身を見てみると、それは物件情報の資料のようだった。しかもご丁寧に、俺のバイト先からの距離や最寄り駅までの所要時間まで、事細かにメモが書き込まれている。  まさかとは思うがこれは……。  おそるおそる顔を上げると、案の定そこにはニコニコと笑う男の顔があった。 「どうだろう。次の連休国慶節中に内覧に行けるよう、準備も用事も急いで全部済ませておいたから……」  どう思うも何も、そんなの答えなんて決まってる。  俺は馬鹿みたいに口をぽかんと開けたまま、ゆっくりと頷いたのだった。  ……やっぱりこいつが相手だと、喧嘩にもならない。