肩越しの蛍火

 昼間のうだるような暑さもいくらか和らぎ、時折涼やかな風が首筋を掠めていくようになった頃。俺と暁星塵は人気のない山奥を歩いていた。  はるか遠くまで連なる山並みは、夕闇が迫り来る薄紫色の空にくっきりとした輪郭を描いていて、まるで一枚の絵の中に迷い込んだかのような錯覚を覚える。  木々の葉擦れの音、虫の声、鳥の囀りや俺たちの足音以外には何も聞こえない静かな山道は、ここが人里離れた辺境の地であることを物語っていた。 「こんな辺鄙な場所に邪祟なんか出るのかよ」  俺は思わず不満げな声を漏らした。  そもそもここで邪祟が暴れたところで、一体誰が困るというのだろう?  しかしそんな俺の疑問など意に介さず、隣を歩く男は険しい顔で辺りを窺いながら答えた。 「ええ、出ますとも。それも群れをなした、おびただしい数の邪祟が……」  その声音には緊張感すら漂っている。どうやらこの先に待ち受けているものは相当厄介なものらしい。  わざわざ俺たちが、遠方へ御剣してまで退治に出向かなければならないほど、害をなすものなのか……。  俺がごくりと生唾を飲み込むと、前を歩いていた男がくるりと振り返った。 「静かに。こちらのようです」  人差し指を立てて口元に当てながらそう言うと、彼は再び歩みを進めた。  俺も慌てて後に続く。遠くから微かに水音が聞こえる。  昼間、暁星塵が義荘で言っていたことを思い返す。邪祟は確か水辺に群れで現れ、不気味な光を放ちながら獲物を待つのだという。  つまり俺たちはこれから、まさにその邪祟の群れがいるであろう場所へ向かおうとしているのだ。  次第に日は沈み、周囲はどんどん暗くなっていく。足元が見えづらくなってきたが、暁星塵は迷うことなく先へ先へと進んでいく。まったく盲人のくせに、なぜこうもすいすい歩けるのか不思議でならない。  やがて目の前に小さな川が現れたところで、ふいに暁星塵の足が止まった。 「ここです。現れるまで待ちましょう」  暁星塵はそう言って頷くと、傍らの岩の上にそっと腰を下ろした。  水面は穏やかで、辺りには清らかなせせらぎの音が響いている。とてもじゃないが、邪祟が現れるような雰囲気ではない。  一見すると何の問題もないように思えるが、それでも暁星塵は確信を持っているようだった。  俺も隣に腰掛けて待つことにした。いつでも降災を取り出せるよう、気は抜かずに構えておく。  それにしても、どうしてこんなところに邪祟が出るなんて噂が立ったのだろうか。しかもこんなに人気の無いところにわざわざ足を運ぶ物好きなんて、俺たち以外にいないだろうに。  そんなことを考えていると、視界の片隅に何かがちらついたような気がした。 「道長! 何か光った!」  咄嗟に声を上げると、暁星塵は即座に立ち上がった。そしてそのまま前方を見据え、右手を横に伸ばして俺に制止の合図を送る。 「大丈夫、動かないで」  暁星塵は霜華を鞘から抜こうともせず、ただじっとあたりの様子を窺っている。だがその声に緊張の色は無い。むしろどこか楽しんでいるような気配さえあった。  一体何が起こっているんだ?  目を凝らすと、水面から数尺ほど上のあたりを、ぼんやりと光る何かがゆっくりと移動しているのがわかった。  俺は小さく息を呑んだ。  それは無数の蛍だった。一匹だけかと思ったが、よく見れば他にも同じような光がそこかしこに舞っていて、それらがまるで自らの存在を誇示するかのように、明滅しながらゆらゆらと宙を舞っているのだ。淡い緑が尾を曳くように光の軌跡を描きながら、音もなく飛び交う。その光景のあまりの美しさに、思わず息をするのも忘れて見入ってしまった。 「道長、これ……蛍?」  俺が呆然と呟くと、暁星塵は静かに頷いた。 「見えましたか」 「見える。見えるが、邪祟は」 「ここに邪祟などいません」 「はあ!?」  思わず大きな声が出てしまった。じゃあなんでここに来たんだよ!?  訳がわからずにいる俺をよそに、暁星塵は穏やかな声で言う。 「嘘をついてすみません。あなたに見せたくて」 「見せるって、この蛍を?」 「はい。私が山を下りたばかりの頃、ここを偶然に見つけたのです。私にはもう見ることはできませんが……あなたと一緒に来たかった」  そう言って微笑む暁星塵の顔は、暗闇の中でも不思議とはっきりと見えた。  この男は最初から、俺を喜ばせるためだけにここへ連れてきたのだ。こいつのこういう突拍子もないところは嫌いじゃないけれど、さすがに今回は驚いた。 「でも、だったら最初からそう言えば良かっただろ」  少し照れくさくなって、ついぶっきらぼうな口調になってしまう。それを誤魔化すために口を尖らせると、暁星塵は小さく笑って首を振った。 「驚かせたかったんです。嫌でしたか?」  そう囁く声は甘く、優しく鼓膜を震わせる。  嫌なわけがあるものか。嬉しいに決まっている。俺を喜ばせるために嘘までつくなんて、本当にあんたときたら……馬鹿なやつ。 「別に、あんたならいい」  顔が熱い。きっと真っ赤になっているだろうことが、自分でもわかるくらいだ。  くそ、調子狂うな……まあ良いけど……。  心の中でひとりごちてから、本音を隠すようにわざと大袈裟なため息をつく。話を逸らさなければ。俺はあれこれ考えを巡らせた後、やっとのことで口を開いた。 「蛍って、なんであんなふうにぴかぴか光るんだろうな」 「ああ……あれは、」  暁星塵は、不意に俺の腰に手を回し、ぐっと抱き寄せる。そして耳元へ唇を寄せてそっと囁いた。 「求愛行動です」  吐息混じりの甘い声音に、心臓がどきりと跳ねる。  俺は弾かれたように顔を上げて、すぐ側にある顔を見つめた。やぶ蛇だった……そう思った時にはもう遅い。暁星塵の長い指が顎にかかったかと思うと、次の瞬間には唇が重なっていた。触れるだけの口づけの後、下唇を食むように柔らかく吸われる。ぞくりと背筋に震えが走った。 「待て、道長。蛍を見せてくれるんじゃなかったのかよ」  俺はかろうじて平静を装って言った。しかしその声は僅かに上擦ってしまう。心臓が早鐘のように脈打つのを悟られまいと、必死で呼吸を整えた。  暁星塵はというと、俺の動揺など気にも留めていない様子で笑い声を上げた。 「あはは、そうでしたね」  まったく腹立たしいことこの上ない。俺はあんたの一挙手一投足にいちいち振り回されているというのに、当の本人はどこ吹く風といった様子だ。  俺たちは岩の上に戻って腰掛けた。辺りにはどんどん光が満ちていって、いつの間にか夜陰を払うほどの明るさになっていた。  たったひとりの想い人を求めて彷徨う蛍たちの光は、さながら天灯のようでもあり、またこの世のものとは思えないほど美しい。そしてその生命は一瞬で燃え尽きてしまうというのだから、ひどく儚げな美しさでもあった。  光の中で隣に座る男の横顔を眺めると、相変わらず穏やかで優しげな表情を浮かべている。水辺を渡るひんやりとした風を受けて、長い黒髪がふわりと揺れた。 「……連れて来てくれてありがとな」  俺がそう言うと、暁星塵は嬉しそうに笑った。なんだかたまらない気持ちになって、奴の腰に背中を回し、ぎゅっと抱きしめる。  ――また来年も、ここで、二人で。  そんなささやかな願いを胸に秘めたまま、俺は暁星塵の肩の向こうで煌めく、光の洪水を眺めていた。