好事成双 前日譚

「暁星塵君、なにをちびちびやっているんだ。私の酒が飲み干せないっていうのか?」  その日、学習塾の経営陣を交えて開かれた懇親会という名の宴席でのことだった。すでに三軒めということもあって、私の隣に座った男は随分と出来上がっていた。呂律の回らない舌で怒鳴り散らす姿はお世辞にも上品とは言えない。せっかくの高級感あふれる大人の社交場だというのに、これでは台無しだ。  優雅なピアノジャズが流れるバーの店内は、重厚感のあるドア、壮麗でありながら主張しすぎない照明、有機的なフォルムを描くカウンターチェア、壁面に飾られた絵画やボトルの数々――灰皿ひとつまで、すべてが上質で洗練された雰囲気で統一されている。オーナーの趣味だろうか。要所要所に可憐な白牡丹のモチーフがあしらわれていて、落ち着いた色調の中にあってもその存在は一際華やかだ。  それなのに、この男ときたら……。  しかし相手は会社の重役であり、無下に扱うこともできない。私は相手の面子を潰すことの無いよう穏便に対応しようとしたつもりだったのだが、それが却って男の気に障ってしまったらしい。酒の入ったグラスを片手に、執拗に絡んでくるようになったのだ。  正直酒は得意ではないし、こんな酔っ払いを相手にするくらいなら早く帰りたいというのが本音だったが、そんなことを言えるはずもない。  私は意を決しグラスを煽った。アルコール度数の高い酒を一気に流し込むと喉が焼けるように熱くなる。 「ガハハハ! そうこなくちゃ。まだまだ飲めるだろう? 遠慮はいらないぞ」  上機嫌になった禿頭は、あろうことか再びカウンターの向こうの店員を呼びつけて新たな酒を注文したのだ。琥珀色の液体が並々と注がれたロックグラスが目の前に置かれて、私は内心げんなりした。グラスの中身は先程よりも濃い色をしているように見えた。きっとこれもウィスキーか何かなのだろう。これをあと何度飲み干せば解放されるのだろうか。グラスを手にしてちらりと腕時計に目をやると、時刻はもうすぐ日付が変わる頃だった。  男は高々とグラスを掲げ、意気揚々と乾杯の音頭をとる。 「では我が社の更なる発展と、生徒からの支持率ナンバーワンを誇るカリスマ講師・暁星塵君の未来に乾杯!」  ああ、もうどうにでもなれ。  半ば自棄になりながら一息に飲み干した。 「……!」  焼けるように熱かった喉にひんやりとした感覚が広がって、火照った身体が内側から冷やされていくようだった。ほんのりと感じる土のような深みある香りと、清涼感が口の中に広がる。 (色味こそウイスキーにそっくりだけれど、これは酒ではない。冷やした普洱茶だ)  何が起きたかわからずに唖然としていると、ガシャンと音を立てて何かが倒れた音がした。先ほどまで散々私に絡むだけ絡んでいた禿頭が、隣で白大理石のカウンターに突っ伏していた。どうやら酔い潰れてしまったらしい。 「さすがに60度はストレートじゃキツかったみたいですね」  カウンターの向こうで先程の酒を注いでくれたバーテンダーが、笑いながらそう言った。耳の装飾具が揺れ、ペンダントライトの光を受けてキラキラと輝く。  彼は私にだけ、こっそりお茶を出してくれたのだ。それに気づき礼を言おうとしたところで、別の重役が私に話しかけたためタイミングを逃してしまう。そろそろお開きにしたい旨を告げられ、私もそれに合わせて席を立った。潰れた禿頭を肩で支えながら店を後にしようと出口へ向かう途中、先ほど助けてくれたバーテンダーに会釈をする。彼は軽く微笑んで頭を下げたが、すぐに店の奥へと消えていった。  タクシーに乗り込む重役たちを見送り、歩道に残ったのは私ひとりきりとなった。なんだか急にどっと疲れが出てしまい、自分もこのまま帰ろうかと思案したが……ふと思い直して踵を返す。  先程のバーテンダーにきちんと礼を述べておきたかったし、なぜだか無性に彼と話したくなったのだ。  見上げた先の看板には“悪友”の文字が優しい光を放っていた。  店内に戻るとちょうど片づけを終えたところだったようで、彼はテーブルを拭いていた。私に気づいたのか手を止める。 「君、さっきはありがとう。おかげで助かりました」  私がそう言うと、バーテンダーはきょとんとした顔でしばらく私の顔を見つめていたが、突然いたずらっ子のような無邪気な表情で笑い出した。 「俺はああいう調子に乗ったおやじが一番嫌いなんだ。あんた、災難だったな」  先程までの落ち着いた態度とは打って変わって砕けた物言いだったので、少々驚いた。だがそれは決して不快ではなかった。むしろ不思議と好感が持てたのだ。 「もう店じまいかな。少しだけつき合ってくれない? おごるよ」 「……ふふ、そういうことなら仕方ないな」  フランクな口調で嬉しそうに顔を綻ばせる様子は、どこかあどけない少年のようだった。  彼の話では、間もなく閉店の時間だが他に来店する客もない為、店を閉める当番になっている彼以外の従業員はすでに退勤したそうだ。 「すごくセンスのいいお店だね。居心地もいい」 「ああ、全部オーナーの趣味なんだ。金持ちのボンボンで俺のダチなんだけど、金に物を言わせてこういう内装に仕立て上げたってわけさ」 「へぇ……お友達が。若いのに有能だ」  手際よくシェイカーを振る様は、荒削りながらもなかなか堂に入っている。まくり上げた黒いシャツから伸びた腕もすらりとしていて綺麗だ。シェイカーを振るたびに、しなやかに動く前腕の筋肉がなんとも艶めかしい。いつしか私は、まるで映画のワンシーンを観ているかのような錯覚に陥っていた。  華やかな所作に見惚れているうちに、出来上がったドリンクが差し出された。 「お待たせしました」  ロンググラスには、乳白色からオレンジ色へとグラデーションを描く液体が満たされている。グラスを手にすると、爽やかな柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。これは強い酒なのだろうかと訝しんでいると、彼がくすりと笑みをこぼした。 「大丈夫、あんたのはノンアルコールカクテルだ。フルーツジュースしか入ってない」 「よかった。君のは?」 「俺のはファジーネーブル。作るのが簡単で甘い酒だよ」  甘いのが好きなんて可愛いところがあるんだなと微笑ましく思っていると、彼はグラスを手に取り私の目の前で掲げてみせた。 「生徒からの支持率ナンバーワンを誇るカリスマ講師・暁星塵君の未来に乾杯!」 「えっ!?」  突然のことに驚いているうちに、グラス同士がカチンと軽やかな音を立てて合わさる。 「ぷっ、あははっ」  楽しそうに笑う彼につられて、私も思わず声を出して笑った。 「君は面白いね。名前はなんていうの?」 「薛洋」 「……カリスマバーテンダー・薛洋君の未来に乾杯」  カクテルを口に含むと、甘酸っぱい味わいが口の中に広がった。ノンアルコールだとわかっているのに、胸のあたりが燃えるような、くすぐったいような、そんな感覚を覚えた。  薛洋と名乗った彼は、耳に連なるいくつものピアスのせいか一見近寄り難い雰囲気を纏っていたが、話してみると実に気さくな青年だった。  改めて見ると随分整った顔立ちをしている。にこにこと笑う口元から覗く八重歯には愛嬌があり、人懐こい印象を受ける。一方で、どことなく漂う色香のようなものも感じられ、そのアンバランスさに惹きつけられる。年齢は私と同じくらいか少し下、二十代半ばといったところだろうか。きっと女性客からも人気があるに違いない。  いつの間にか薛洋は私の隣に座り、私たちは他愛もない話に花を咲かせていた。閉店時間はとっくに過ぎていたが、退店を促されることもなかったので私はすっかり寛いでしまっていた。  仕事の話や趣味のこと、好きな食べ物など話題は尽きない。こんなに誰かと会話を楽しんだのはいつぶりだろうかと思うほど、軽やかで心地良い時間が流れた。初対面だというのに昔からの友人のように会話が弾み、私たちはあっという間に打ち解けていった。  薛洋も頬杖をつき、リラックスした様子で時折笑顔を向けてくる。  だがそこにわずかな違和感を覚えた。グラスを弄ぶ左手の指の動きだけが、どこかぎこちないのだ。 (怪我でもしているのだろうか?)  じっと見るのは失礼にあたると思い視線を逸らそうとした時、薛洋の方が先に口を開いた。 「この指が気になるか?」  私の視線に気づいていたようだ。慌てて首を横に振ったが、彼はそれを無視して言葉を続けた。 「ガキの頃事故で怪我したんだけど、病院に連れて行ってもらえなくてさ。結局そのまま放置したせいで小指だけ動かなくなった」 「そうだったのか……すまない」 「別にあんたが謝ることじゃないよ」  彼は自分の左手に目を落とした。伏せた睫毛が、頬に長く影を落としている。憂いを帯びた表情に胸がざわついた。  するとその左手の上に、するりと別の手が重なった。短く整えられた薄桃色の爪を指の腹で撫でてから、うっすらと疵あとの残る指のつけ根をゆっくりとなぞる。慈しむよう優しく、壊れ物を扱うように、そうっと。 「……っ」  薛洋が息を飲む音が聞こえる。そして私はそこで初めて、手の持ち主をはっきりと認識することが出来た。  彼に触れていたのは、私自身の手だった。  彼の手よりもひと回り大きく筋張った手が、彼を守るかのように包み込む光景を目の当たりにして、心臓が早鐘を打つ。私は慌てて手を引っ込め、謝罪の言葉を口にした。 「すまない! 馴れ馴れしく、こんな」 「いいよ。ちょっとびっくりしただけだ」  薛洋は何事もなかったかのように平然としていた。しかしよく見ると耳がほんのり赤く染まっている。私は急に身の置き所がなくなったような気分になった。 (なんであんなことしてしまったんだ。今日初めて会ったばかり、しかも同性じゃないか)  店内に流れる音楽が、やけに遠くに聞こえる。早く何か言わなければと思うほどに、言葉が出てこなくなる自分がもどかしい。  トントントン。何かを叩く音に視線を上げる。  彼はもう一度カウンターの上に手のひらを乗せて、人指し指でトントンと鳴らしていた。 「ん」 「え……、え!?」 「あんたに触られるのは嫌じゃない」  心臓が、うるさいくらいに高鳴る。全身の血液が沸騰したように熱い。鏡など見ずとも、自分の頬がみるみる紅潮していくのがわかる。名前を知らない感情に思考が追いつかない。  ただひとつ確かなことは、彼の左手の皮膚の感触や温度、小指の疵あとの凹凸をもう一度確かめたい。そう強く思ったことだけだった。  私の右手は見えない力で吸い寄せられるように、再びそこへ伸びていく。  あと5センチ……あと1センチ……あと5ミリ。  ジリリリリリン!  あとほんの僅かで触れるというところだった。カウンターの向こうで、アンティークなヨーロッパ風の電話がけたたましくベルの音を鳴らした。  弾かれたように互いの身体が離れる。 「やべ、忘れてた」  彼は慌てて立ち上がり電話をとると、二言三言話してすぐに受話器を置く。  我に返った私の手は空を切り、虚しく宙を彷徨う。行き場をなくした手でグラスの水滴を拭った。 「さっき話した例のオーナーから。売上の報告がなかったから掛けてきたらしい」 「そうか、遅くまでつきあわせてしまってすまなかったね」  私は平静を装って言葉を返す。内心がっかりしていることを見透かされないよう、つとめて明るく振る舞おうとしたのだが、かえって不自然になってしまったかもしれない。 (いや待て。がっかりしている? なぜ?)  自問するが答えは出ない。彼に抱いた感情は一体何だったのか。解答を導き出そうとすればするほど思考は混乱を極めるばかりだ。 「これ、俺の名刺。プライベートの連絡先も書いといたから、今度よかったらメシでも」  名刺の表に印刷された店舗の電話番号とは別に、裏にはメッセージアプリのIDと携帯電話の番号が走り書きされていた。 「ありがとう。必ず連絡するし、時間に余裕がある時にまたここに寄らせてもらうよ」 「アハハ、酒強くないくせに?」 「また美味しいノンアルコールカクテルを作ってよ」  薛洋は屈託の無い笑顔を見せながら、もちろん、と応えた。  私は手渡された紙片を大切に名刺ケースにしまい、店を後にした。  店を出て家に帰るまでの間、なんだかずっと上の空だったように思う。頭の中はずっと薛洋のことでいっぱいだったのだ。  それから何度か店に通って、私たちは急速に距離を縮めた。すぐにプライベートで会うようになり、食事を共にしたり、私の家で夜通し映画を見たりするようになった頃には、薛洋に抱いているものが恋心であるのだと自覚した。  良く言えば行動が早い、悪く言えば勢いだけで動くようなところがある彼は、いつでも私をぐいぐい引っ張ってくれる。奥手な私に対して積極的にリードしてくれて、トントン拍子に交際が始まった。  黙っていると周囲の人間は私に対して過剰に良いイメージを抱くようで、今まで出会った人々からも、もっと完璧でスマートな人間だと思われていたようだ。だが実際の私は家族も言うように不器用だし、天然とからかわれるほど鈍感な部分もある。何より恋愛に関してはあまり経験がなく、どう振る舞うべきか戸惑うことも多々あった。  何もかもに不慣れな私を、彼は気にする素振りもない。常に自然体で接してくれることが、私は本当に嬉しかった。 「暁星塵先生、最近なんだかよく笑うようになりましたね」  ある日の昼休み、昼食をとっていると同僚にそんなことを言われた。自分では全く意識していなかった。  確かに以前よりも明るくなったと妹や母からも指摘されたことを思い出す。  きっと彼の影響なのだろう。彼がそばにいてくれるから、毎日がこんなにも満たされているのだ。  しばらくすると、薛洋は当たり前のように私のマンションに転がり込んできて、同居生活がスタートした。  彼と過ごす日々は驚きの連続でもあったが、それ以上に幸せだった。何気ない会話も、ちょっとした喧嘩さえも楽しいと思えるようになったのだ。  きっとこのままずっとふたりで平穏に暮らしていけると思っていた。  それがいかに甘い考えであったか思い知らされたのは、付き合って3年ほど経ってからのことだった。