好事成双~真ん中バースデー~

 時計の針が間もなく深夜1時を指そうという頃だった。リビングで模擬テストの採点をしていた私は、そろそろ眠ろうかと思い始めていた。  彼はまだ仕事中だろうか。あのバーは週末ほど混み合ってはいないはずだが、ひと言メッセージを送ってから寝ようか……。  スマートフォンを手に取りアプリを立ち上げると、ちょうど薛洋からのメッセージが届いたところだった。 『はやめに仕事終わったんだけど、これから泊まりに行っていいか?』  ずいぶん急だなと思いつつも、もちろん断る理由などなかった。彼の行動が唐突なのはいつものことだし、もう慣れっこになっていたのだ。それに、彼と過ごす時間はすっかり私の生活において大きなウェイトを占めるものとなっていた。  すぐに既読がついたのを見てか、立て続けにメッセージが届く。 『ケーキあるから一緒に食おう』 『月曜は仕事休みだろ?』 『てかもう着くし』  メッセージに返信をする間もなく、インターホンが鳴った。慌ててモニターを確認すると、そこには見慣れた青年が映っている。八重歯を覗かせて悪戯っぽく笑う顔が画面に大写しになり、少しどきりとした。 「悪いないつも急で。じゃーん! これ、お土産」  玄関を開けると、大きな箱を抱えた薛洋が立っていた。悪いな、と言いつつも悪びれた様子は全くない。いつも通りの彼の様子に思わず笑みがこぼれる。しかし、その頬は紅潮しており、目元も潤んでいるようだった。明らかに酔っている。  それにしても、こんな夜中にケーキなんてどうしたのだろうか。 「君ならいつでも歓迎するよ。さああがって」  ひとまず彼を家の中へ招き入れると、薛洋はふらふらした足取りでソファに歩み寄り、すとんと腰掛けた。やはり相当飲んでいるようだ。 「君の着替えを出してくるからちょっと待ってて。それとも先に水がいい?」  しょっちゅう泊まりにくる彼の為に、着替えや日用品一式は常備してある。水も彼が好んで飲んでいるというミネラルウォーターを冷蔵庫にストックしていた。 「ケーキ!」  薛洋は叫ぶようにそう言うと、私の手を引き隣に座らせた。かすかに甘い酒の香りが漂う。 「ケーキ?」 「うん、開けてみろよ」  言われるままにテーブルの上の箱を開けていくと、中には小ぶりなホールケーキが入っていた。チョコレートで作られたプレートにはハッピーバースデーと書かれている。  これは一体どういうことだろう。誕生日はまだ先だし、特に何かの記念日というわけでもなかったはずだ。 「4月24日は俺たちの真ん中バースデーなんだって。阿瑤オーナーが計算できるサイトを教えてくれて、それで今日、持って来た」  真ん中バースデーとはその名の通り2人の誕生日のちょうど真ん中の日だ。妹の阿箐が母と話しているのを聞いたことがあったので、なんとなくは知っていた。だがまさか薛洋がそういうイベントごとに興味を示すとは思わなかった。 「わざわざ用意してくれるなんて。ありがとう、嬉しいよ。先に着替えてから一緒に食べよう。水も持ってくるよ」  歩き出そうとした私を薛洋が制する。薛洋は私のTシャツの裾を掴むと、じっとこちらを見上げた。アルコールのせいか目が潤み、頰は赤く染まっている。 「お前が脱がせて着替えさせてくれるのか? 水も飲ませてくれる? ケーキもあーんしてくれる?」  子供のおねだりのような口調に私は思わず吹き出してしまう。薛洋も何が面白いのかけらけらと笑い出した。 「君がそうしてほしいって言うならそうするけど」 「しない」 「ええ……どっちなの」  酔っ払い特有の脈絡のない会話に、今度は苦笑するしかなかった。だがへらへらと笑っていた薛洋が、急に真面目な顔になる。そして私をじっと見つめたまま言った。 「友達は普通、そういうことはしない」  一瞬どきりとする。私が薛洋に抱く感情は、友情ではない。それを見透かされたような気がして、心臓の鼓動が少し早くなった気がした。動揺を悟られまいと、努めて冷静に振る舞う。 (私たちは友人同士なのだ。それ以上でもそれ以下でもない)  自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。 「そ、そうだね。確かにそうだ」  なんとか言葉を絞り出すと、彼は一度目を伏せ、再び顔をあげる。その瞳の奥にどこか寂しげな色が見えた気がして、思わず手を伸ばしそうになったその時だった。薛洋は突然、私の胸ぐらを掴み引き寄せたかと思うと、そのまま唇を重ねてきたのだ。 「……っ!」  驚きのあまり目を見開くことしかできなかった。何が起こっているのか理解できないまま、彼の唇の感触だけがやけにはっきりと伝わってくる。数秒後、唇が離れた。離れていく彼の唇を名残惜しいと思ってしまったことに自分でも驚いた。  薛洋はというと、いつものあの悪戯っぽい笑みや人を食ったような態度からは想像もできないほど、真剣な眼差しをこちらに向けている。 「お前が脱がせて着替えさせて、水も飲ませて、ケーキもあーんしてくれ」  いつもの軽口のようでいて、しかしその声にはいつもとは違う真剣さが感じられた。  薛洋の言葉の意味するところを理解した瞬間、心臓が跳ね上がる。それはつまり、薛洋が私を友人以上の存在として見ているということに他ならない。  薛洋が私に好意を抱いてくれていることには気づいていた。しかしそれは友情であって、私の抱いているような感情ではないとずっと思っていたのだ。  どくんどくんと激しく脈打つ自分の心音が耳に響く。まるで警鐘のように頭の中で鳴り響いていた。 「君、酔っているでしょう」  やっとのことで絞り出した声は掠れていた。 「酔ってるけど、正気だ」  薛洋の目は据わっていた。その目はまっすぐにこちらを見つめ、視線を逸らすことを許さない。  あっという間に再び唇が重なる。今度は先程よりも深く口づけられた。熱い舌が侵入してくると同時に、ほのかな酒の香りを感じた。 「俺とこうするのいやか? 気持ち悪いか?」  至近距離で囁かれ、頭がくらくらした。薛洋の息遣いが鼓膜を刺激する。  薛洋の問いかけに対する答えはひとつしかない。気持ち悪いなんて思うわけがなかった。それどころか、むしろ……。 「いやなわけないよ……僕は君が好きなんだ。多分、出会った時から」  言い終わるやいなや、噛みつくように口を塞がれた。息継ぎも出来ないほどの激しい接吻に目眩がする。いつの間にかソファに押し倒されるような体勢になっていた。背中には柔らかなクッション、目の前には熱のこもった目で見下ろす薛洋がいる。 「星塵~~~~。やべぇ、好きかも。ケーキなんかより俺を食えよ」  がばりと覆いかぶさってきた薛洋の重みに息が止まりそうになる。苦しい、けれど、それ以上に心地よかった。薛洋の体温を、匂いを、重さを全身で感じることができることが嬉しかった。  私の首に両手を回したまま、薛洋は甘えるように頰をすり寄せてくる。まるで大きな猫がじゃれついてくるようで、思わず笑みがこぼれた。 「真ん中バースデーが、私達の付き合い始めた記念日にもなったね」  薛洋の髪を、背中を、ゆっくりと撫でながら語りかける。薛洋は無言のまま、ただ私を抱きしめ続ける。 「……ケーキ食べる? それとも、ええと……シャワーがいいかな」  薛洋は応えない。沈黙に耐えかねて、私は慌てて言葉をつないだ。だが薛洋一向に動く気配がない。 「薛洋?」  不思議に思い名前を呼ぶが、相変わらず反応はない。すうすうという規則正しい呼吸音が聞こえるだけだ。どうやら私の上で眠ってしまったらしい。ほっとしたような残念なような複雑な気持ちだ。  けれど、体にかかる重みと、ぬくもりに、愛おしさがじわりと込み上げてくる。  彼を起こさないようそっと抱きかかえ、寝室へと運んだ。ベッドに横たえ布団をかけてやると、薛洋はわずかに身じろぎをしたが起きる気配はない。穏やかに眠る寝顔はいつもより少しだけ幼く見えた。長い睫毛が頬に影を落とし、整った顔立ちを際立たせている。 (焦らなくてもいい。記念日はさっき始まったばかりなのだから)  私は横たわる薛洋の隣に潜り込むと、彼の体に腕を回し、静かに目を閉じた。