春の蜜より

 義荘での奇妙な共同生活が始まってから、初めて迎えるあたたかな季節だった。  暁星塵と共に薪を拾いに入りこんだ森の中。目の前に広がる一面の薄紅色を前に、薛洋は小さな歓声をあげていた。 「驚いたな。こんなにたくさん咲いているのは初めて見た!」 「花……。確かに、ここはよい香りがしますね」  淡く紫がかった紅色をした小さな花が、ふたりの前でさわさわと風にゆれている。 「名前も知らない花なんだけどさ。ガキの頃は道端で見つけると、仲間と一緒に我先にと争うように摘みとったもんだ。懐かしいな……」 「家に飾るために?」 「はっ、まさか!」  薛洋は思わず大笑いした。 「この花の蜜は、本当にびっくりするほど甘いんだよ。あんまり甘くて喉が痺れるくらい! 甘い菓子なんか滅多にありつけない浮浪児にとっちゃ、春だけの何よりの楽しみだったんだ」 「なるほど……思い出の味というわけですか」 「うん、そう。あんまり生えてない珍しいやつだから、殴り合いの取り合いだった!」  薛洋は集めた薪を地面に投げ捨て、花が群生する草むらにどっかりと腰をおろした。暁星塵もそれに倣いとなりに腰をおろす。  かつて夢中になったあの甘さを思い出すと、薛洋の口の中にじゅわりと唾液が湧き出た。  一輪手折り、花弁を慎重にはずす。そして期待に胸を膨らませながら、茎の部分をそっと口に含んだ。ところが。 「ん!? 不味い!」  思わずペッと茎を吐き出す。  これっぽっちも甘くない、というわけではなかった。植物特有の青さを含むほんのりとした甘みは、舌で感じることができる。しかし思い出の中の、喉が灼けるかと思うほどの甘さには程遠いのだ。試しにもう一輪大きな花を選んで摘んでみたが、やはりそれも期待した味ではない。 「似ているけれど、別の花だという可能性は」 「いや、俺が見間違うはずはないんだが……まあいい。ほら、あんたも吸ってみろよ」  薛洋はもう一輪摘んで花びらを取りはずすと、暁星塵の口に入れてやる。初めての経験に、暁星塵はおそるおそる茎を舐めた。 「甘い。美味しいです」 「そうか? でも、なんか違うんだよなぁ……」 「あなたが大人になって味覚が変化した、ということなのかも」  薛洋は吸っていた茎を再び地面に吐き出し、しばし考え込む。突然暁星塵の膝の上にごろりと転がると、じゃれつくように甘えた声を出した。 「なぁ道長、飴ある?」 「ありますが……今朝の分はどうしたのですか」 「そんなもの、とっくに食べた」 「あはは、仕方ないですね。阿箐には内緒にするのですよ」  暁星塵は眉を下げて困ったように、しかしどこか嬉しそうに微笑んだ。そして袖から一粒取り出して手渡す。薛洋はあっという間につつみ紙を広げ、上機嫌で口の中に放り込んだ。 「やっぱりこっちの方が、ず――――っと美味いな!」  この飴は、さして収入のない暁星塵が買えるものだけあって、町で手に入る中で最も安価な品だ。その為ものによって大きさ、形もまちまち。そうたいして甘くもないうえ味にムラがあり、とにかくずいぶんいい加減な作りだ。  しかし、それを美味い美味いと無邪気に笑う薛洋に、暁星塵はふっとやさしく口元をほころばせる。  薛洋にとっては、暁星塵から与えられるこの安物の飴の甘さこそが、いつの間にかなによりも甘美な味になっていた。  子供の頃に夢中になった花の蜜よりも、この世の中のどんなご褒美よりも。  口の中で甘みが雪のように儚く溶けて消えると、薛洋はもう一度飴をねだり、暁星塵も「仕方ないですね」と笑って答えた。