金曜、19時10分の温もり

 吐く息で視界が白く霞んだ。立春を過ぎたとはいえ、夜間の気温は氷点下近くまで下がるのだ。だがこの寒さにも関わらず、大通りに面した歩道は、週末の夜を楽しむ人々でごった返していた。  歩きながらスマートフォンを確認すると、すでに約束の時間まであと6分。 『今夜こそ、遅刻したら君の奢りですよ』  眠い目をこすりながらドアの前で見送る俺に向かって、そう宣告した暁星塵の顔をふと思い出した。今朝は目が全然笑っていなかったな……。あいつは普段はまったくといっていいほど怒らないが、いざ怒らせると怖いタイプだ。  突然車道でクラクションがけたたましく鳴り響き、いっそう俺の焦りを誘う。急ぎ足からスピードをあげて、人波を縫うように歩道を駆け抜けた。  今日の待ち合わせ場所は、屋台街道の入り口にある牌楼(門)前。門はどぎついくらい派手やかな銀朱色で、豪華な朱雀の彫飾が施されている。暁星塵はその下で、高潔で清淑な白い鶴のように凛と佇んでいた。頭のてっぺんから爪先まで、ピンと一本の筋が通ったような美しい姿勢に、俺は一瞬見とれてしまった。  子供みたいに必死に走ったのがバレないよう、スローダウンして息を整える。そしてできるだけ涼しい顔で、ゆっくりと近づいた。  暁星塵はそんな俺を見るなり、目をパチパチさせて驚嘆の声をあげる。 「すごい! 君が時間通りに来るなんて初めてかも」 「今日は余裕だったぜ。やればできるんだよ、俺は」  ふふんどうだ、と誇らしげに胸を張って見せた。  よく見ると、暁星塵の鼻は寒さのせいでずいぶん赤くなっていた。生真面目なことに定時きっかりで仕事を終えてから、19時よりもずっと早く来て、寒空の下で律儀に待っていたのだろう。俺の遅刻癖をわかっているくせに、馬鹿だな。 「星塵の鼻、りんごみたいに真っ赤だぞ」  俺がそれをからかうように笑う。すると暁星塵もコートのポケットに両手を突っ込んだまま、俺を肘で小突いて「阿洋だって真っ赤だよ」と、クスクスと笑った。 「俺は走って来たんだから仕方ない」 「走ったって、今日は余裕だったんじゃなかったの? 本当はまたゲームをしてゴロゴロしてるうちに、ソファで寝てしまったんでしょう」 「! ……う、うるさいな!! いいだろ細かいことは」  つまらない嘘を自ら白状してしまった。しかも休日を怠惰に過ごしていたことをズバリ言い当てられて、俺はきまり悪さに鼻の頭を指で擦った。  その手を見て、暁星塵は俺に尋ねる。 「阿洋、手袋はどうしたの」 「ああ、急いでたから玄関に忘れてきちゃった」  走っているうちにすっかり冷たくなった手に、俺ははぁーっと息を吹きかけ温めた。すると暁星塵は、クラシカルなヘリンボーン柄の手袋をつけた右手を、俺の目の前に差し出す。 「手をこちらへ」 「は? いやいやいいって!」 「あはは、遠慮しないで」  夜とはいえ、大の男二人が人目のある所でそんなこと。万が一宋嵐や金光瑤にでも見られたら、のちのちまでの語り草になることだろう。それに、お堅い職業の暁星塵にもし何かあったらと思うと気が気じゃない。  しかし暁星塵は俺の心配をよそに、強引に冷たい左手を掴んでそのままコートのポケットにつっこんだ。 「こうすれば温かいから……。あっ、やっぱりちょっと待って」  暁星塵は何かを思い出したかのように慌ててポケットから右手を出し、手袋をするりと外した。そして二人の指が交互に絡み合うように、もう一度しっかりと隙間なくつなぎ直した。 「わざわざ外さなくたって」  何気なくそう言った俺の耳に、暁星塵は口を近づけて、ぼそりと呟く。 「隔てるものなくつながる方が好きだって、君が毎晩言うから」 「……」  意味ありげに目を細めてニッコリと微笑んだ。俺の手のひらには一気に妙な汗が吹き出した。聖人君子のような姿をしているくせに、時々冗談なのかそうでないのかわからないことをさらりと言うから、俺はいつも答えに困って顔をそむけてしまう。  俺たちは門をくぐって、賑やかな人混みの中へと紛れこむ。道を挟んで両側に所狭しと屋台が立ちならぶ街道を、肩を寄せあいゆったりと泳ぐように進んだ。  そうしてしばらく歩いているうちに、俺の不安は杞憂に過ぎないことがようやくわかり、ホッと胸を撫で下ろした。手をつないで歩く俺たちに、好奇の目を向ける者はいない。人々は他人のことよりも、屋台を埋め尽くす美味しそうな食べ物に夢中なのだ。  屋台はどれもカラフルにライトアップされて、雑多で活気に満ちている。烤麸麺カオフーミェン大餅巻肉ダービンチュエンロウ生煎饅頭シェンジェンマントウ、それに俺の好物糖葫蘆タンフールー。定番の軽食から珍味、若者に人気のスイーツまで、ごちそうがよりどりみどりだ。  香辛料や調味料の香り、それと砂糖の甘い香りが混ざりあって濃密に漂い、思わず胃袋がきゅうと鳴る。 「で、上海蟹が安くて美味い屋台っていうのはどこなんだ」 「確かこちらだった気がするんだけど……間違えたかな」  上海蟹の旬はもうそろそろ終わりだ。 『おすすめの屋台に案内するから、今夜は外食にして今季最後の上海蟹を一緒に食べよう』  そう誘ってきたのはこいつなのだが。困ったなぁ、という言葉とは反対に、暁星塵の声色は、なぜか鼻歌でも歌い出しそうなほどご機嫌だ。  一方、口の中がとっくに蒸し蟹の味になっていた俺は、お目当ての屋台に辿りつけず苛立ちをつのらせていた。 「おい~~、本当に合ってるのか~~?」 「大丈夫、そんなに広くない夜市だしいつかは着くよ。それに迷って少し遠回りした方が、長く手をつないでいられるでしょう」  ポケットの中の手がぎゅぅっと力強く握られた。  本当にずるい男だ。そんな風に言われたら、怒るに怒れないじゃないか。  大きな手に包み込まれた俺の左手は、もうすっかりぽかぽかと温まっていた。  あちこちの屋台から、呼び込みの朗らかな声がひっきりなしに上がっている。どこかで『上海蟹』と叫ぶ声も聞こえたが、俺も暁星塵も聞こえないふりで通り過ぎた。  まだ19時10分を過ぎたばかり。ご馳走よりも先に、あと少しだけこの手の温もりを味わうのもいいかもしれない。  週末の夜は長いのだ。