♡の約束

「その日だけは、すまない」  液晶ディスプレイの向こうで、兄は深々と頭を下げた。 「お兄ちゃん、本当にだめ?」 「阿箐のピアノが聴けないのはとても残念なんだけど……どうしてもその日は1日、大切な約束があって」  毎週木曜の夜は、親元を離れて暮らす6歳年上の兄とビデオ通話をするのが、ここ最近の習慣だ。  兄は昔から、少し年の離れた妹のあたしにだけはとびきり甘い。あたしがどんなわがままを言っても、大抵のことは受け入れてくれたものだ。 (なのに、なんで?)  兄に憧れて習い始めたピアノは、今年で10年の節目。どうしても、どうしてもその成果を見に来て欲しかったのに。ルームウェアのフードについてるポンポンを、ひっぱったりつついたりしていじけて見せた。 「年に1回しかない大きなコンクールなんだよ~っ!?」 「必ず埋め合わせはするから、今回だけは許して欲しい」 「ねぇ、誰と何の約束なの? 大学の用事?」 「それは、その……。ごめん」  言い淀んで、小さく咳払いした。  あたしはPCの前で繰り返し大げさにせがんだが、兄の答えは頑として変わらない。優しいけれど頑固な兄のことだ、きっとこれ以上何を言っても答えは同じだろう。 「……仕方ないなあ。今度あたしがそっちに遊びに行く時は、ディズニーランドにつきあってもらうから覚悟してね」 「はは、わかったよ。で、阿箐は何を弾く予定なの?」 「リストの『愛の夢 第3番』だよ」 「難しい曲を選んだね。あれは左手のパッセージがとても────」  言いかけた時、スピーカーからキィ、とドアがきしむような小さな音が聞こえた気がした。兄の視線も、一瞬ちらりと遠くへ動き、言葉はそのまま途切れてしまった。 「何の音?」 「猫、だよ」  なぜか困ったような曖昧な笑みを浮かべている。それにしても、兄が猫を飼うなんて意外だった。そんなに動物好きだったっけ……。 「飼ってるの? 見たい見たい」 「まぁそんなところかな。でも猫は気まぐれだから、呼んでも来ないんだ」 「えー。そうなの……」  あたしはうなだれ肩を落とす。だがその時、今度はかなりはっきりと、兄のすぐ近くで聞こえた。 『ニャーン』 「今、鳴き声がした!! いいなぁ、あたしもいつか一人暮らしをするようになったら、絶対に猫を飼いたい」 「うん、阿箐は小さい頃から動物が好……あぁ、こら!」  この猫は、どうやらいたずら好きのようだ。兄は足元へ視線を落とし、何やらずいぶん慌てている様子だ。心なしか顔を赤らめ、目を白黒させている。まさか、足の指でもかじられているのかしら? 「ごめん阿箐、続きはまた近いうちにゆっくり! わっ、あっ!」 「……えっ!? 大丈夫?」  急におかしな声をあげて取り乱す兄の様子に、あたしもただ事ではないと思わず椅子から腰を浮かせる。兄は机の下へかがみ込んで、必死に猫を抑えているようだった。ガタガタと大きな音がして、映像が激しく乱れる。 「阿洋やめなさい」  そこで画面がフリーズ。ビデオ通話は突然終了した。あたしはしばらく、そのまま画面を見つめてポカンとしていた。 (“阿洋”はずいぶん凶暴な猫みたい。いつも冷静沈着なお兄ちゃんが、あんな風に慌てるなんて珍しいな。怪我をしていなければいいんだけど)  深いため息をついてから、のろのろとマウスを握る。通話ソフトを終了させる為、カーソルをウィンドウの×に乗せようとしたその時。あたしの目は赤い♡の印に釘付けになった。  固まったままの画面には、整頓された本棚と真っ白な壁が映し出されている。そして兄が移動したことで、真後ろに掛けられていたカレンダーが初めてはっきりと見えるようになっていた。そのカレンダーの4月24日、ピアノコンクールの日には、赤いペンで大きな♡の印がつけられていたのだ。 (もしかして、これがお兄ちゃんの言ってた“大切な約束”?)  兄の性格からして、カレンダーに可愛く♡の印をつけるなんて、とてもじゃないけどありえない。とすると、一体誰がこの印を書き込んだというのだろう。  あたしのコンクールよりも優先する“大切な約束”、兄以外の人物が書き込んだ♡印、たいして興味がなかったのに突然飼い始めた猫。導き出される答えは一つだった。とうとう、とうとうあのお兄ちゃんに……。 「猫好きの恋人ができたんだ!」  あたしは自室で仁王立ちになり、なぜか天に向けて拳を力強く突き上げていた。  あの純一無雑な兄が好きになるくらいだから、外見だけではなく内面の清らかさも兼ね備えた完璧な女性だろう。きっと真っ白なワンピースが似合って、サラサラストレートのロングヘアをなびかせながら、レースのハンカチを敷いた公園のベンチで木漏れ日の下、優雅に詩集を読んで胸をときめかせるような人に違いない! ああ、素敵~~♡ 「あっ、そうだ! ディズニーランドはお義姉さんも一緒に連れて行こうっと♪」  まだ見ぬ憧れの義姉に、妄想はどんどん膨らんでいった。  しかしこの時、あたしは思いもしなかったのだ。  のちのち紹介される兄の恋人が、まさか“阿洋”という名のチンピラみたいないけ好かない男だとは……。 ◆ 「阿洋! ちょっと落ち着きなさい、ベルトから手を離して……!」 「この俺がいるのに、他のやつと長々喋ってるのが悪いんだよ。な~にが猫だっつの」 「もう、あれは妹だよ。それに24日はちゃんと断ったじゃないか」 「当たり前だ! ……なぁ星塵、PCなんてもういいだろ。大事な恋人が湯冷めして風邪ひいても平気なのか?」  薛洋は机の下で、良からぬことをたくらむような不敵な笑みを浮かべる。  そして暁星塵の膝に頬を擦りつけると、もう一度『ニャーン』と猫の鳴き真似をしてみせた。