さよなら

 ──あの時、俺を助けたことを後悔しているか?  そう尋ねると、俺を抱く腕の力が強まった。  ああ、この人は嘘をつくとき、少しだけ間を置くんだった。それがわかってるから、俺は余計に辛くなる。   「……いや、答えなくて良い。忘れてくれ」  聞きたくない。その続きなんて。だから俺は彼の言葉を遮った。  俺たちには記憶がある。別の人間の、違う人生を生きた記憶だ。それは決して綺麗な思い出なんかじゃない。むしろ胸糞悪い事ばかりだ。  それでも……あんたとの思い出は悪くないと思ってしまう自分がいる。そんな自分に反吐が出る。  あんたにとっては、きっと忌まわしい過去なんだろうな。 「お前のせいで」とか、「お前さえいなければ」とか、言われても仕方がないくらいの事をした自覚はある。  なのに、こうやってあんたの腕の中にいて、その体温を感じて、鼓動を聞いてると、どうしようもなく満たされるんだ。生まれ変わってもなお、俺はあんたを求めてしまう。  だからこそ辛いのだ。今こうして抱かれている事が苦しい。  あんたは俺を憎んでいるのだから。本当は殺してしまいたいんだろう? 殺したくて堪らないはずなのに。それならさっさと殺すなりすればいいものを。どうしてこんなにも優しく抱き締めてくるのか。  ……わからないよ、あんたが何を考えているのか。  もしこれが同情だとしたら、本当に質が悪い。  それともこれがあんたの復讐なのか? 「もう、こうやって会うのはやめだ」  俺の言葉を聞いて、俺を胸に抱く男の顔が歪んだ。   「え……」 「会わない方が良い」 「なぜです?」 「…………」  腕を振り払い、乱れたベッドから体を起こす。暁星塵の顔を見る勇気はなかった。俯いたまま続ける。   「俺はあんたに会うべき人間ではないから」  そう、前世で俺がしたことは許されることではなかった。多くの命を奪い、傷つけてきた。いくら償おうとも決して許されないほどの大罪を犯してきた。そんな人間がのうのうと生きているなんて許されざることだ。  ──ましてや愛されて良いはずがない。  たとえ生まれ変わったとしても、記憶がある以上それは変わらない。  ベッドの下に放り投げてあったシャツを拾い上げ、袖を通す。ボタンを留めるのももどかしい。とにかく早くここを出たかった。  だが立ち上がろうとした時、後ろから手を掴まれた。振り払おうとしたがびくともしない。  暁星塵は俺の手首を掴んだまま言った。   「“あなた”が何をしたと言うのです」  彼は静かに問うてくる。責めるような口調ではなく、ただ穏やかに尋ねられただけだというのに、まるで心臓を鷲掴みされた気分になった。  思わず目を逸らす。息苦しさに喘ぐかのように浅い呼吸を繰り返した後、俺はようやく口を開いた。   「俺は数え切れない程の人を殺してきた。お前の友まであんな目に……」  そう告げると、暁星塵は小さくため息をついた。呆れているのだろうか。それも当然だ。   「それは“あなた”の罪ですか?」  静かな声だった。だがそこには怒りの色が含まれていた。その事に気づきながらも、俺は言葉を紡いだ。この男の口から発せられる言葉を聞きたくなかった。   「そうだ。だからもう会わない。さよな────」  突然視界が反転し、背中に衝撃を受ける。唇が塞がれて、言いかけた言葉は舌の上で溶けた。  覆い被さる影を見上げると、暁星塵の美しいかんばせが目の前にあった。氷のように澄んだ切れ長の目が、真っ直ぐにこちらを見ている。   「今のあなたはこうして達者に暮らしているんですから、過去を引きずる必要はないと思います」  いつか、どこかで、聞いた言葉だった。 「悪いが話はそんなに単純じゃない。俺はお前にした事を無かったことにはできない」  前世の記憶を持っているということ。それはつまり前世の罪を背負ったまま生まれ落ちたという事だ。その罪から逃げることはできない。逃げれば俺は一生自分の事を許さないだろう。   「あんただって、俺と関わらない方がいいってわかっているはずだ」  暁星塵は首を横に振った。長い髪がさらりと流れ落ちてくる。   「では償いなさい」 「……何だって?」 「罪を贖いなさいと言っているんです」  あまりにも思いがけない言葉に唖然とする。  この男は一体何を言っているんだろう? 俺に何をしろと? まさか俺に金でも稼げと言いたいのか? 「一生かけて償いなさい。私に。私の隣で」  暁星塵はそう言うと、再び唇を重ねて来た。今度は優しく啄むように。  俺を映す瞳に吸い込まれそうになる。俺は動くことができなかった。   「私と共に生きなさい」  厳かな声で暁星塵が言った。胸の奥がざわつく。暁星塵の言葉に、魂までも縛られるような心地になる。  ああ、だめだ。この男に逆らうことができない。抗うことなどできない。何故ならこの男こそが、俺の全てなのだから。  俺は苦笑する。   「あんたって人はどこまでお人好しなんだ……」  暁星塵はいつも通りの穏やかな表情に戻っていて、俺の左手の小指にそっと口づけた。  それはまるで神聖な誓いの儀式のような光景だった。  過去世では暁星塵に告げることができなかった別れの言葉。  それは今生でもまた、伝える機を永久に失ったのだ。