ヤキモチ

 鼻腔の奥がツンと冷たい。吸い込む空気はあまりに冷え冷えとしていて、肺の中まで凍えそうだ。  俺は温もりを求めて隣に右手を伸ばすが、昨夜そこで眠りについたはずの男は影も形もない。布団の中に手を突っ込んでも、そこには冷気がわだかまっているだけだった。  心がざわざわと波立ち目を開ける。どうやらまだ夜明けには早いようだ。外から入り込むおぼろげな光で、天井は青灰色に照らされている。そのせいだろうか、いつもよりずっと無機質に見えた。 (あいつ、どこに行ったんだ?)  耳を澄ましても何の音も聞こえない。しんとした静寂が辺りを支配していて、まるでこの世には自分一人しかいないみたいだ。  突然風がぴゅうと鋭く甲高く鳴る。それを追いかけるように、立て付けの悪い窓や戸がガタガタと不吉な音をたてて揺れた。  窓の外を見ると白いものが狂ったように舞っている……雪だった。ああ、そういえば昨夜から降り出したんだったっけ。 「道長?」  呼んでみるが返事はない。  布団から上半身を起こして室内を見渡すと、暁星塵は少し離れた窓際に佇み外を眺めていた。  眺めている、とは言っても、もちろんあいつは何も見えない。だが何かの思いに浸っているような、すぐそこではないどこか別の遠い場所を見ているような、そんなどことなく虚ろさを漂わせた横顔だった。  俺の呼びかけにもまったく気づいた様子はなくて、そのままふっと消えてしまいそうな危うさがある。 「……子琛ズーチェン」  わずかにそう唇が動いたのを、俺は見逃さなかった。 (今、あの男宋嵐のことを考えている)  俺は突然胸がむかむかとするのを感じたが、その苛立ちを悟られないよう、あえて明るい声でもう一度暁星塵を呼んだ。 「道長、もう起きる時間?」 「……あぁ」  暁星塵は我に返ったようで、小さくため息をつくとこちらを振り向いた。その表情はまだ夢うつつのぼんやりしたものだったけれど、それでも先ほどまでの物憂い気配は薄らぎ、代わりに穏やかな笑みを浮かべている。 「目が覚めたのですか。まだ早いですから寝ていても良いのですよ」 「ならこっちへ帰って来てよ。風邪をひく」 「大丈夫です」 「俺がだ! 寒いだろうが」  暁星塵はこちらを向いてふっと笑うと、寝床に戻って来た。  それから俺の隣に潜り込み、身を寄せてくる。触れる鼻先や髪までもがひどく冷たい。いったいどのくらいの時間あそこに居たんだろうと、思わず眉をしかめてしまう。 「何も見えないくせに、一体何してたんだ」  俺が問うと暁星塵は微笑んで言った。 「見えなくても雪が降っていることは分かります。それに雪が降ると、少しだけ思い出す事があって……あなたと出会う前の、昔のことですが」 「へぇ。それって楽しい思い出?」  知らんぷりでわざと尋ねる。暁星塵は少し考えてから静かに首を横に振った。 「それは、どうでしょう……」  雪、拂雪、白雪観。こいつが考える事などおおかたそのあたりに違いない。 『過去をひきずる必要はない』なんて俺に偉そうに言っておいて、こいつが一番未練がましく過去を引きずってるんだから笑わせる。  暁星塵は「過ぎたことです」と微苦笑した。  その陰りを帯びながらも柔らかで優しい笑顔が、妙におもしろくなかった。  気づけば俺は、唇にがぶりと噛みついていた。 「な、どうしましたか」 「この俺が隣で寝てたってのに、別のヤツの事を考えていたな?」 「……!?」  暁星塵の唇には強い表面張力を持った赤い雫がぷくりと盛り上がってきて、今にもこぼれ落ちそうだ。俺は両腕を首に回して抱きつき、その雫を舌先で丁寧に舐めとった。鉄臭い味。暁星塵の血の匂い。  そしてわざとらしくシナを作って甘えた声を出してやる。 「酷いよ、道長」  暁星塵は驚いて固まっていたが、やがて俺の意図を理解したのか、優しく笑って俺の頭を撫でてくれた。   「思い出していたのは友人の事です。ですが、あいにくあなたが想像しているようなことは何もありませんよ」  俺を安心させるように、ゆっくりと言い聞かせるように言葉を紡ぐ。でもそんな言葉で誤摩化せると思ってるんだろうか? 俺の心の中には黒い炎が激しく燃え盛っていた。 「本当かなぁ。俺、結構傷ついたかも……」  俺は嘘泣きをして暁星塵に抱きついた。 「す、すみません」 「……」 「……うまくいかないものですね」  暁星塵は困った顔をしていたが、俺を慰めようとしているのだろう。抱きしめ返して俺の背中をさすった。 (ははっ、困れ困れ!)  俺は心の中でほくそ笑む。こいつがあたふたする様子はなんとも言えず愉快だった。 「どうしたら機嫌を直してくれますか?」  暁星塵が囁く。  俺は腕を緩めて、至近距離にある顔を見つめた。 「そうだなぁ……ねぇ、次の春が来たらもっと暖かい町に引っ越さない?」 「え?」  暁星塵はきょとんとした顔になる。 「雪なんて降らないところ。俺とあんたと二人で。二人が嫌だって言うならチビが一緒でもいいよ、三人で遠くへ行こう。約束してくれるなら機嫌を直す」  暁星塵は戸惑ったように身じろぎした。 「急にどうしたんですか?」 「俺の足、もう良くなったんだ。どこでも行ける。雪が降らなきゃ、あんたも嫌な事とか他のヤツの事、思い出さないで済むだろう?」  俺以外の事を考えて欲しくなかった。俺だけの事を考えて欲しい。俺無しじゃ生きられないようになってほしい。俺だけを感じて、俺だけを愛して、俺だけに尽くして、俺の為だけに存在するようになればいい。  暁星塵はしばらく考え込んでいたが、やがて微笑んで言った。 「いいですよ、行きましょう。だから涙を拭いて」  涙? これは嘘泣きだ。涙なんか──。  そう思った時、頬を伝う涙の存在に初めて気づいた。なんだこれ……。  自分でもわからなかった。  俺の目からは次から次に大粒の涙が溢れ出し、ぽたりぽたりと暁星塵の服に染みを作った。こんなはずじゃないのに、止まらない。俺の意志に反して、勝手に流れ出してくる。 「ああ……ほら、泣かないで」  俺を引き寄せると、胸に抱いてあやす様にぽんぽんと背を叩いた。まるで小さな子供にするような仕草だ。だけど、俺には何も抵抗することができなかった。暁星塵に抱き寄せられているだけで、胸の奥底に燻っている暗い感情が溶けていくような気がしたからだ。  頬に触れる暁星塵の肌が心地よい。俺は目を閉じてうっとりとその感覚に浸っているうちに、いつの間にかふわふわとした微睡の中に落ちて行った。 「暁星塵……」  夢うつつの中、無意識のうちに呟いていた。 「はい」 「…………」  返事をしたつもりだが、言葉になっていなかったらしい。  暁星塵は黙って俺の背をいつまでも撫で続けていた。