「道長、医者なんて大げさだって。あんたのその薬を飲んで寝ていれば治るよ」
「しかし、やはり私の手持ちでは十分ではないですから、一度医者に見てもらった方が……」
道長があいつの前で薬を取り出した時、あたしはたまたま近くを通りかかった。
あいつは手にした布切れで目元を抑えたまま、なんでもないような顔をして笑っていた。
昨晩の夜狩の最中、あいつは両目を負傷していた。原因は、道長が霜華を振るった時に飛んだ木片。
この義荘からさして遠くはない村で邪祟が出ると聞きつけた道長は、あいつを連れて夜狩にでかけた。
道長は疾風の如き速さで邪祟を切り伏せてゆく。そんな道長を見て、あいつは一瞬見惚れている様子だった。
その直後のこと。
道長の剣圧により邪祟が近くの廃屋へと吹き飛ぶ。飛び散ったいくつかの木の破片が、あいつの顔に直撃したのだ。
手で抑えても血は溢れて止まらず、あいつはしばらく道長の目の前で立ちすくむ。
いつも通り二人を物陰から見ていたあたしは、その傷口から流れ出た血に、思わず顔をしかめた。
血は手を伝ってぼたぼたと流れ落ち、地面に赤黒い染みを作ってゆく。
だけどその時あいつが一瞬、自分に駆け寄る道長の前で、口元に意味ありげな薄笑いを見せたのは、あたしの気のせいだったろうか……。
「幸い目玉に傷はないし、まぶたと頬が少し切れただけなんだ。そんなに大げさに騒ぐなよ」
「しかし……」
「ほら、もうこれでいいだろう?」
あいづちを打っていた道長が何か言う前に、あいつは自分の袖を引きちぎると、それを包帯代わりにぐるりと頭に巻き付けてしまった。
道長は手を伸ばしてあいつの目元に触れて、布越しに患部を確認しているようだったが、やがて諦めたように手を下ろした。
「どう? 道長とおそろいだよ」
「馬鹿なことを言っていないで早く横になりなさい」
道長は苦笑してそう言ったけど、その声はどこか嬉しそうな響きを含んでいた。
……なんだか妙な雰囲気だなぁと思った。
あいつは素直に寝台へ上がると、仰向けになって布団をかぶって眠りについた。
あれから数日が経つけれど、まだ瞼の傷は治っていないようだ。包帯を巻いている上からでもわかるくらい腫れ上がっていて痛々しい。
道長は飲み薬を買って来て、毎日甲斐甲斐しくあいつの世話をしている。なのに、不思議と目の治りは遅々として進まないのだ。
「困りましたね。化膿しているようだし……やはり医者に見せた方がいい」
道長がそう言っても、あいつは首を横に振るばかり。
「大丈夫だって。あんなに酷かった脚の怪我だって今はなんともないんだから。そのうち治る」
「ですが」
「道長がこうやって看病してくれるんだから、俺はなんにも心配してないよ」
「不自由させてすみません。元々は私の不注意なのに……」
道長が謝る必要はないと思うんだけど。あの時飛んで来た破片を避けられなかったあいつがマヌケなだけだ。
それなのに道長ときたら責任を感じちゃってるのか、ずっとあいつの傍を離れようとしない。まるで片時も離れたくないと言わんばかりの態度に、見ているこっちまで恥ずかしくなる。
「さぁ、薬を飲みましょう」
「自分で飲めるよ。それより道長、俺、りんごが食べたいなぁ?」
道長が薬の包を開けると、あいつは甘えた声でおねだりをした。
「わかりました。それを飲んで大人しく待っていて。くれぐれも目に触れたりこすってはいけませんよ」
そう言い残して道長が部屋を出て行くと、あいつは包帯の上から目を撫でて表情を歪める。道長の前では平静を装っていたけど、本当はまだかなりの痛みがあるらしい。
少しだけ気になって、気配を殺して遠くからこっそりと様子をうかがっていると、あいつはおもむろに起き上がった。
道長から手渡された薬を飲むのだろう。そう思った時だった。
あいつは突然、手に持っていた薬を遠くへ放ってしまったのだ。
さらに道長の忠告を無視して目をごしごしとこすり始める。
(せっかく道長があんたのために、わざわざ町まで買いに行ってくれた貴重な薬を!)
……まさか。もしかして。今までずっと飲まずに捨ててたの? 一体なぜ!?
薬を飲まないうえに、わざと傷口を痛めつけるようなことをしていたのだとすれば、治りが遅いのも当然の事。
あたしは駆け寄って行って、あいつの手を掴み上げたい衝動に駆られた。だけど、見えないフリをしなければならないので仕方なく我慢するしかできなくて……。
しばらくすると道長がりんごを手に戻って来て、あいつは上機嫌でそれに手を伸ばした。
あたしはその真意がわからず、ただ成り行きを見守るしかなかった。
あいつは、きれいに切り分けられたりんごを受け取ると、すぐに口に入れてしゃくしゃくと音を立てて噛む。
「どうですか、おいしいでしょう?」
「うん。すごく甘いな」
道長が尋ねると、あいつは満足げに笑って答えた。
「たくさん食べてください。はやく元気になってもらわないと」
「ありがとう。道長は優しいな」
あいつはにっこりと笑うと、また一口齧った。
「さあ、阿箐もどうぞ」
「…………」
道長はあたしを呼び寄せてりんごを勧める。一切れ手に取り口に運ぶが、なんだかあまり味がわからない。もそもそと咀砕きながら、二人の様子をじっと見つめた。
「道長ごちそうさま。少し、休もうかな……」
さっきよりも、声の調子が弱くなっている気がする。道長もそれに気付いたようだ。
あいつは寝台に横になると、苦しそうな呼吸を繰り返した。顔にはわずかに汗が滲んでいる。道長は額にそっと触れて顔を曇らせた。
「やはり、化膿して熱が出ていますね。今すぐ医者を呼んできます」
そう言って立ち上がる道長を、あいつは呼び止めた。
「いいよ、医者なんか。それよりそばにいて。道長がいないと淋しい」
あいつは道長の袖を掴むと、泣き出しそうな声で訴えた。道長が困ったように眉間に皺を寄せる。
「……仕方ないですね。阿箐、手間を取らせて申し訳ないけれど、桶に冷たい水を汲んできてくれませんか?」
「う、うん。わかった」
あたしは井戸まで走り、釣瓶を落として水の入った桶を引き上げた。
(まったく、なんであたしがこんなこと……!)
道長に頼まれなければ、絶対にしなかったと思う。
部屋に戻ると、道長は指の背であいつの頬を撫でながら、ずいぶん親密に何か話していた。あいつは時々小さく相槌を打っている。
「あーあ、このまま治らなかったら、ずっと道長とおそろいなのになぁ」
「何を言うんです。馬鹿なこと言わずに早く良くなって」
あいつの軽口に、道長は真面目に答えていた。このまま治らなかったら、だなんて、本当に無神経な奴。
「道長! お水持ってきたよ!」
「ああ、ありがとうございます。ここに置いておいてもらえますか」
「悪いな、ちび」
道長とあいつは、あたしに気づいて返事をする。言われた通りに桶を置くと、道長は手巾を水に浸し、固く絞って額に載せる。あいつは冷たくて気持ちいい、と言って微笑んだ。
窓から差し込む温かな光に照らされた道長は、まるで天女と見紛うばかりの神々しさと、慈愛に満ちた美しさを湛えている。白い衣を纏って微笑むその姿は、まさに神仙の類いのように見えた。
だが、一方。あいつはそんな道長とは対照的だった。
顔はちょうど道長の陰になり、光が届かず闇に溶け込んでいた。なのに、口元の八重歯だけがまるで獲物を狙う獣の牙の如くぎらついているのだ。今にも道長に喰らいつき丸呑みにしてしまいそうな、狂気じみた気配さえ感じられた。
そのくせ声色だけは人懐こく甘えるようだから、その不釣合いな様が一層不気味さを際立たせる。
ねぇ道長──あいつが甘ったるい声でそう呼びかけると、背筋にぞくりと薄ら寒いものが走る。得体のしれぬ恐怖が頭をもたげて、思わず後ずさりをした。
「……あ、あたし買い出しに行ってきてあげる!」
そして矢も盾もたまらず、その場から逃げ出した。
(あいつ、やっぱり何かがおかしい。道長を騙すためにあんな演技をしているに決まってる)
でも、そんなこと道長に言ったところで、信じてもらえるわけもない。そもそも盲人のフリをしているあたしが、何をどう伝えれば良いというのだろう。
あたしは途方に暮れた。
(いつかあいつの化けの皮を剥いでやる)
そう心に誓って、あたしは足早に町へと向かった。