「出かけてくる」
私にそれだけ告げて、彼はふらりと義荘を出ていくことがある。帰ってくるのは早ければその日のうち、長ければ2、3日程。
そして戻ってきた後の彼の体には、白粉の匂い、酒食の匂い、甘ったるい香の匂い、そういったどぎつい匂いが染み付いていることがほとんどだった。
私は目が不自由な分聴覚や嗅覚が敏感だが、あれ程の強い香りであれば私でなくとも鼻につくだろう。
何度かそうしたことがあって、どうやら彼は何処かの妓楼に出入りしているのだと直感した。金はどうしているのかわからない。
大きな波風を立てているわけでもないので、戻って来た彼にあえて問い質すこともしない。
しかしここで共同生活をしている者が、私の知らぬところで何をしているのか気にならないわけではなかった。
彼は今回も夕刻に出て行き、夜が明け太陽が昇り始めた頃に危い足取りで義荘に帰って来た。まだしたたかに酔っているらしい彼は、自らの寝床に戻る前に力尽き、戸口で倒れ込み転がっていた。
「帰ったのですか。そんなところで寝ていては風邪をひきますよ」
「あん? どうちょう、たらいまぁ」
「あまり羽目を外すのは感心しませんね」
「お説教なら聞かないよ。放っておいてくれ……」
彼は酒瓶を持ってるらしく、コクコクと喉を鳴らし飲み干す音が聞こえた。
「飲みすぎでは」
「あんたに咎められたくないし、俺がどこで誰と何をしようと勝手だ!」
どこで誰と何をしようと勝手。そう言わればそれまでなのだが。胸にチクリと棘を刺されたような痛みが走る。
ただ、彼を放ってはおけない、そう思った。
「それに道長も男なら、たまには“そういう気分”になる事もあるだろ?」
「……自分を律することも大切な修行ですから」
「自分を律する!?」
彼は突然けらけらと笑い転げた。
「俺はそんなつまらないことはしない主義だ。こんな薄暗い義荘の寝床じゃなくて、女とあったかい布団で寝たいこともあるわけ。でもここで女っていったらあのチビしかいないしさ、仕方ないと思わない?」
「……」
「あっ、勘違いするなよ、俺はあんたが好きだしここを出ていく気はない。けど、たまにはそういう人肌恋しい日もあるってだけ」
「つまり、行いを改める気はないということなのですね」
(人の子なら、人肌恋しい日があるのは仕方がない。だが不特定の者と関係を持つのは看過しかねる)
はぁ、と私が小さくため息をつくと、彼は急にパチンと指を鳴らした。
「そうだなぁ、あんたが相手をしてくれるってなら考えてもいい」
「わっ! ちょっと」
「ねぇ~道~長~~♡」
彼は酔っ払い特有の脈絡のなさで再び機嫌良く笑い出したかと思うと、私の袖を強く引いた。思わず前のめりによろけて、彼の体の上に覆いかぶさる体勢になってしまう。
耳元で彼が内緒話をするように楽しげに囁いた。息が酒臭い。
「実は俺さぁ、突っ込まれるのも嫌いじゃないんだ……」
聞くに堪えない言葉から逃れる為体を離そうとしたが、襟をがっちりと掴まれていて身動きが取れなかった。
「女なんかよりずっと尻の形も中の具合も良いって、金をくれる奴もいたくらいだよ。試してみる?」
「……悪ふざけが過ぎますよ」
「ふざけてなんかないさ。気持ち良いことに男も女も関係ない」
そう言って私の手を取ると、ぱくりと指を2本、口に含む。
生暖かい舌を器用にくねらせ指を弄び、それからまるで口淫するかのような下卑た音を立てて舐めしゃぶった。
「す、少し、落ち着いて……」
「本当はさ、ずっと思ってたんだ。あんたとヤりたいって」
な、なんて? 思わず耳を疑った。
そしていつになく熱のこもった声で発せられた言葉に、頭を殴られたような衝撃を覚える。
「でもあんたってそういうの全っ然興味なさそうだし、おまけにとんでもなく鈍感な男だもんな。だから他で発散するのはしょうがないだろ? 俺のせいじゃないんだよ……」
彼の膝が私の下腹部をくいくいと挑発的につついた。
(ヤりたい、鈍感、しょうがない? つまり、私と、そういう、)
言葉をひとつひとつ反芻するが、とても思考が追いつかない!
彼はしばらく指に丁寧に舌を這わせていたかと思うと突然ガリ、と歯を立てて言った。
「あんたのせいだから」
「やめ……やめなさい……」
やめろとは言ったものの、体が硬直して振り払うこともできなかった。は、は、と息が上がり溺れるような息苦しさを覚える。自分の意思に反して、下半身にどんどん血が集まり熱を持っていく。
彼に対しそのような思いを抱いたことがなかったと言えば嘘になる。私は彼を憎からず思っていたのは事実だ。一種不遜ともとれる言動の数々には閉口したが、一方でその率直さが好ましくもあった。そして時折私にだけ見せる、どこか幼さを孕んだ物言いや振る舞いに心を揺さぶられたことも一度や二度ではない。
けれども、彼に対し特別な感情を抱くことはひどく浅ましいことのように思えてならなかったし、この気持ちを伝えるつもりもなかった。
それなのに――。
仙師として心の奥底に封じたはずの生々しい欲が鎌首をもたげ、このまま衝動に身を任せてしまいたいという思いが、徐々に頭を侵食し始めていた。
(ああ、いけない)
いくら頭で否定しても理性とは裏腹に、彼の唇の感触を求めて私の腕は彼の肩を抱き寄せようと動いた。
瞬間、突として体の拘束が解かれ指が冷たい空気に晒される。私は危ういところでハッと我に返る。
彼は、喉の奥から絞り出すような小さな声で呟いた。
「……ぅ、ぎも゛ぢわ゛る゛……っ!!」
「!? だ、だから飲みすぎだと……! 水を持って来ますからおとなしく待っているのですよ」
急いで台所の水瓶から水を汲んで戻るが、すでに酔っぱらいはすぅすぅと寝息をたてていて、そのまま深い眠りに落ちてしまったようだ。
やれやれ。彼の首根っこを掴み引きずって寝床まで連れて行き、布団をかけてやった。
その日の未の刻を過ぎた頃、ようやくのっそりと寝床から起き出して来た彼は、今朝の出来事などまったく憶えていない様子だった。ただしきりに頭痛を訴えながら唸り続けている。
本音を言うと、今朝の言葉の真意を問い質したい気持ちはあった。
だが、これまで築き上げてきたものが粉々に砕けてしまいそうな、天地がひっくり返されてしまいそうな……そんな漠然とした恐怖にも似た感情が湧き上がり、私は沈黙するしかなかったのだ。