私が見た彼らは

 まだお客様もほとんどいないオープン直後の店内は、白昼夢のように静謐でがらんとしている。エスプレッソの濃厚な香りが漂う喫茶店の片隅。私はカトラリーの手入れをしながら、マスターから声がかかるのを今か今かと待っていた。 「李芳リー・ファンちゃん、先生のカプチーノお願いね~」 「はーいっ!」  カップとソーサーをトレーに乗せ、いそいそと向かった窓際のテーブルには、長身で優しげな目をした色白の美青年が座っている。 「先生、カプチーノお待たせしました」 「ありがとう。今日は待ち合わせなので、それらしい男性が来たらここに通していただけますか?」 「かしこまりました、ごゆっくりどうぞ♡」 (はぁ、今日も顔が良い……!)  この日の先生は英国紳士を彷彿とさせるベージュ系グレンチェックのベストにスラックスというスタイルで、サラッサラで長いストレートヘアをひとつにまとめていた。そして、スラリとした指でシナモンスティックをつまみ、カプチーノを上品にかきまぜる。  モデルと言われれば信じてしまうくらい、絵になっている。先生の周りだけが、晴れ渡った冬の朝の、清浄でやわらかな日差しに照らされているような……なんだか現実味のない美しさだ。  先生は、私がアルバイトをしているこの喫茶店「カフェYao」に時々やってくる男性で、年齢はおそらく私より少し上、20代半ば程だろう。  マスターも他の従業員もなぜかみんな彼を「先生」と呼んではいるけれど、実際何の先生なのかは誰も知らない。お医者様というふうでもなく、平日の昼間にも来店するので学校の先生でもなさそう。  他にも『とある大富豪の養子』とか『若そうに見えるが実は子持ち』とか、嘘か本当かわからない噂が色々あった。  先生はとにかく謎の多い人なのだ。 (でもそこがまたミステリアスで魅力的なんだよね)  なんとか先生とお近づきになりたい、と思っている従業員は結構いるし、もちろん私もそのひとりだった。  うっとりとしていると、カランカランというドアベルの音が鳴り響き、ハッと我に返る。 「いらっしゃいませ、何名さ……」 「あ~俺、待ち合わせなんだけど。背が高くて髪の長い優男。来てるだろ? どこ?」  男は不機嫌そうに、私の言葉を遮って矢継ぎ早に言った。棒付きのキャンディをくわえた口元には、特徴的な八重歯がちらちらと見え隠れしている。  上下黒のジャージにビーチサンダル。前髪をヘアピンで留めていて、両耳にはシルバーのピアスがびっしりと連なっている。顔つきは端正でまつげはバサバサと音がしそうな程長く、きちんとした服装でいれば人好きのする好青年というルックスだと思う。  しかし今は典型的なガラの悪いチンピラ、という表現がぴったりだろう。 (はぁぁ!? まさか、こいつが先生と待ち合わせしてる人?) 「もしかして、先生の、お連れ様……ですか……?」 「先生? あー、うんうん先生ね、そうだよ」 「失礼しました、こ、こちらですどうぞ……」  ピクピクと口元をひきつらせた作り笑いで、男を窓際の先生の席に案内した。  私達のやりとりに気づいたのか、先生は遠くでにこにこと笑いながら片手を上げ、「こっち」と合図を送っている。  それを見た途端、男はたった今までムスッとしていた顔を突然パッと輝かせた。小走りで席に向かい、先生の真正面にドカリと座る。そしてテーブルに身を乗り出すと、先生の顔のすぐ前でなにやらヒソヒソと話しだした。  すると先生は突然吹き出したかと思うと、今まで誰も見たことのないような楽しげな顔で、声を出して笑い始めた! (あの物静かな先生が!? 声を出して笑っているなんて!! 嘘でしょ嘘でしょ嘘でしょぉぉぉ~~!?) 「李芳ちゃん? おーい? 先生のお友達のオーダー頼むよ」  あまりのショックにわなわなと震えていて、私はマスターの声にまったく気づかなかった。いかん、落ち着け、先生に挙動不審なところを見せたくない。  平静を装いながら先生の席に向かうと、2人は親しげに談笑していた。 「こちらのケーキはマスターの奥様の手作りで、とても美味しいと評判なのだそうですよ」 「え、じゃぁ食べる!」 「飲み物はいつもの……これでいいですか」 「うん、いいよ」 (なんでこんなチンピラ男に丁寧語なの先生!) 「ご注文は……」 「彼にこの日替わりショートケーキと、キャラメルラテを。シロップは多めにお願いしますね」 「かしこまりました、少々お待ちくださいませ」 「おねーさん、うんと甘くしてね~~」  こいつ糖尿病待ったなしだわ。ザマミロ。  心の中で毒づきつつマスターにオーダーを伝え、2人の席にちらりと目をやって私は倒れそうになった。  あの男はテーブルの下でビーチサンダルを脱ぎ、裸足のつま先で先生の膝を撫でたり小突いたりしながらにこにこ笑っていたのだ。  そして先生もまた、それを咎めるでもなく笑顔を浮かべてお喋りを続けている……。  どういう関係なのだろうか? 考えるほどに動揺とイライラが止まらなくなった。  2人は小一時間滞在して、先生が会計を済ませて一緒に店を出て行った。  深い溜息を吐き出し、誰もいなくなった窓際の席の食器をのろのろと片付けるが、手元が狂ってカップがガチャンと大きな音をたててしまう。 (ああ、今日はもうだめだ……早く帰って寝たい)  その時ふと、テーブルの端に置いてある観葉植物の陰にキラリと光るものがあることに気づいた。手に取ってみると、それはカラフルなキャンディーのチャームがひとつついた可愛らしいキーホルダーだった。 (……これ、先生が持っているのを見たことがある!)  先生のイメージとは程遠いデザインだったからはっきりと記憶に残っていた。間違いない、これは先生の忘れ物だ。 「マスター、先生まだ近くにいると思うのでこれ届けてきます!」  キーホルダーを手に店を飛び出し、私は必死に走った。  先生にちょっとだけでもいいところを見せたい。そして私にもあの笑顔を見せて欲しい。そんな下心があったのは確かだ。  いつも先生が歩いてくる路地の方向を進むと、遠くに2人の影が見えた。  ああ良かった、間に合った!  息を切らせて近づくと、2人の様子が少しおかしい。先生とあの男は何やら揉めているような様子で立ち止まっているのだ。  ついさっきまで仲良さそうに笑い合っていたのに、一体どうしたんだろう? なんとなく声をかけるのがためらわれて、私も2人の少し後ろで歩みを止める。 「そんなことはありませんよ」 「道長様は昔からおモテになるからな~、どうだか?」 「もう、機嫌を直して……」  何に揉めているのかわからず、私の頭上には大量の『?』が浮かんだ。……それに、〝道長様〟って?  先生は困り果てたという顔で首をゆっくり横に振ると、男の腰に手を伸ばしてぐっと引き寄せる。  そして、こめかみのあたりに、優しく口づけた。  腕組みをしていた男は、はぁ~っと大きなため息をつき、やれやれというジェスチャーをする。しばらく唇を尖らせてじっと顔を見上げていたが、やがて先生の耳たぶをちょんとひっぱり八重歯を見せてころころと笑った。  2人のその仕草は心底愛おしいと思う者だけにするそれで、お互いの間には他者にはうかがい知れない深い絆があるのだと容易に理解できた。  キーホルダーが私の手から滑り落ちて、地面でチャリンと硬く澄んだ音をたてた。 「ああ! おねーさんさっきの店の?」  その音に気づいた男は、踵を返しこちらへ歩み寄る。私は急いで落としたキーホルダーを拾い上げた。 「それ俺の。サンキュ~~」 「え!? あ……、どういたしまして」 「彼の忘れ物を届けてくれたのですか? わざわざすみません」  先生はいつもの穏やかな顔で言うと、「ではまた」と背を向け歩き出した。  男はキーホルダーをポケットにごちゃっと押し込み先生の後を追った。  しかし、突然スタスタと私の方へ戻って来るや否やすぅっと無表情になり、心の芯まで凍る冷たい声で囁いた。 「あいつも俺のだからね」  私が届けたキーホルダーは先生のものではなかった。先生と同じチャームがついていたけれど、あの男のものだったのだ。お揃いなのだろう。  私の気持ちを敏感に察し、その上でおそらくわざと置き忘れた。きっと私が届けに追って来ると予想して。  ──2人の関係をわからせるために! (ああ……そういうこと)  私は完全に負けた。2人の態度から「もしかしてそうかも」という予感はあったが、はっきりとすべてを悟り、悲しみを通り越して無になった。  店に戻ると、マスターが顎髭を撫でながら独り言のように言った。 「先生があんなに笑うところ、初めて見たねぇ。全然タイプの違うお友達だったけど……正反対だから気が合うってやつなのかな。とはいえ私はああいうチャラチャラした男はどうもいけ好かない」  ムカつく男だったし、先生とは正反対だった。  でも正反対だからこそ、2人はピッタリと噛み合ったパズルのピースのようだった。そこに他者が入り込む隙間は1ミリもない。  私は、すでに自分が先生の隣にいる姿など、全く想像できなくなっていた。 「そういえば李芳ちゃん、奥の席にあの人、噂の【含光君】だっけ? 来てるよ~」 「え! まじですか」 「ははは、君は本当に面食いだねぇ! むしろ清々しいよ……。オーダーとっておいで」 「はーい♡」  そう、失恋でメソメソしている暇はない。世界はイケメンで溢れている。幸せは自分の手で掴み取らなくては!  私は胸を小躍りさせながら、奥の席へと急いだ。